⑫ 岩佐派についての研究研究者:福井県立美術館学芸員戸田浩之はじめに岩佐又兵衛は名を勝以,碧勝宮,道誼と号し,元和・寛永期という,桃山から江戸への過渡期にあたる時期に活躍した絵師である。天正6年(1578),摂津伊丹城主であった荒木村重の子として生まれたと伝えられる。しかし村重が織田信長に反旗を翻したため一族は滅ぼされるが,又兵衛はこれを逃れて本願寺教団に匿われ,母方の姓岩佐を名乗り京で成長した。そして京都で絵を生業とするようになり,元和2年(1616)頃,越前北之庄(現福井市)に移り住み,福井藩主2代忠直,3代忠昌の用命により工房を主宰した本格的な作画活動を行ったと考えられる。そして寛永14年(1637)に江戸へと向かい,慶安3年(1650)73歳の生涯を閉じている。彼の作品は,やまと絵や漢画の手法を幅広く取り入れたもので,和漢の物語や故事に取材した古典的人物画から,「浮世又兵衛jの名で知られた風俗画まで数多い。その個性的で多彩な活動は当時広く受け入れられて多くの追随者を生むことになり,ついには岩佐派という一派を形つくることになったと考えられる。岩佐派については今日その存在について大方の認識を得ていると考える。それは又兵衛勝重一陽雲と絵師としての家系が続いていること。そして彼ら以外にも名前の知られる絵師の存在が確認されること。そして何よりも又兵衛によって確立された画風が,一つの様式的存在となっていることからも明らかである。又兵衛そして岩佐派の研究については,これまで多くの研究がなされてきた。しかしともすると又兵衛中心で,又兵衛以降の岩佐派については実体に不明な点が多いこともあり,論述される機会は少なかった。本稿ではこれら又兵衛以降の岩佐派について,名前の確認できる絵師について述べ,次に岩佐派における画風の継承について,以下に考察を試みるものである。又兵衛の画系一勝重・陽雲岩佐家に伝わった『岩佐家譜Jによると,又兵衛没後その跡を継いだのは息子の源兵衛勝重である。生年については不明であるが,又兵衛やその子陽雲の没年などから考えれば,又兵衛の福井時代に生まれたとするのが妥当であろう。一297-
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