鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
309/763

。。つ山勝重の活動が本格的に始まったのは,寛永14年(1637)からと考えられる。又兵衛の江戸出府を機に,福井の工房が勝重主導で行われたと見るべきであろう。「職人尽図扉風」(氏家家旧蔵)などに見られるとおり,又兵衛作品をそのまま再構成させた作品が多く,画風も又兵衛福井時代後半期の様式が顕著なことから,勝重の学画時期が推定できる。一方「猿猿・董雁図J(東京国立博物館蔵)からは江戸狩野の影響が看取され,単に又兵衛画風の墨守に留まらない勝重の姿勢が窺える。また又兵衛が新境地を拓いた風俗画については「花下遊楽図扉風J(高野美術館蔵)が作風から勝重作と判ぜられ,「浮世又兵衛」の伝統を伝えているが,これに対して花鳥図が比較的多いのも勝重の傾向といえよう。家譜に「父の業を継ぎ家主主を堕さず」と記され,又兵衛亡き跡の岩佐派をよく守り伝えたとされる勝重だが,実際の活動については又兵衛以上に明らかではない。しかしそのなかで最も注目される勝重の活動として福井藩御用絵師としての福井城障壁画制作が挙げられる。又兵衛が福井藩の用命を受けていたことは確かであるが,今に残る福井藩関係の資料からは,又兵衛が藩に召し抱えられていた形跡を見いだすことはできない。これに対し勝重が藩のお抱えとなったことは,『岩佐家譜Jや福井藩史『続片聾記J所収の4代藩主光通時代の資料「大安院様御切米給帳」に,その名を記されることからも確かである。恐らく勝重が岩佐派二代目となった慶安3年(1650)からさほど時を経ない頃に,御用絵師の地位を得たと思われる。それは勝重の実績と地縁が認められた結果というよりも,忠直,忠昌という歴代藩主の恩顧を受けた父又兵衛の功績が大きく影響したことは想像に難くない。一方,寛文9年(1669)の大火により,福井城は僅かな建物を残し悉く焼失するが,寛文11年(1671)に再建された本丸御殿内の「鶴之問jの障壁画制作に,勝重を中心とする岩佐派一門も参加した。「群鶴図扉風J(福井県立美術館蔵)は,まさにこの鶴之聞の襖絵の一部である。また近年発見された「鶴・平家物語図扉風J〔図l〕(注l) の鶴も鶴之聞の,そして平家物語図は鶴之聞に面していた「御便番所」の襖絵で,その特徴からこれも勝重の作品と考えられる。これらは制作年代の判るほぼ唯一の勝重作品で,かつ彼の技量と派の水準を知る上で大変貴重で、ある。なお勝重が藩に提出した鶴之聞の見積書の写し(『続片聾記』所収)によれば,この制作の手間として175人の人数が記されている。もちろん延べ人数ではあるが,勝重工房の規模を考える上で

元のページ  ../index.html#309

このブックを見る