鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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重要な資料といえよう。勝重は福井城障壁画制作の2年後,延宝元年(1673)に没している。享年は不明であるが,又兵衛の妻が未だ生存し,しかも又兵衛没後13年しか経過していないことから,あるいは早めの死であった可能性も考えられる。そして勝重の死後,岩佐派三代目となったのは勝重の子陽雲以重である。福井藩資料によると,通称は勝重と同じく源兵衛を名乗り,陽雲以外に安節の号も用いていた。父と同じく福井藩の御用絵師として仕えたが,貞享3年(1686)福井藩領の半減によって,多くの藩士とともに解雇されている。この出来事は陽雲,そして岩佐派にとっても大打撃であったことは十分に想像できる。陽雲は大きな経済的基盤を失い,必然的に岩佐派工房は縮小,ないし解体へと向かい,福井の岩佐派はこれにより急速にその力を失っていったと推測される。以重作とされる「霊昭女図」(福井県立美術館蔵)〔図2〕からは,陽雲の絵師として技量の未熟さと,それ以上に又兵衛様式の希薄さが目立つ。一つの画派においてその特徴とも言える様式の継承がなされないということは,すなわち流派としての存続理由を失ったのにも等しい。そこには勝重から陽雲への画法の継承が不十分で、あり,かつ岩佐派自体にそれを守り伝える体制がなかったことを示してはいないだろうか。その後陽雲は福井藩の支藩である松岡藩に召し抱えられるが,絵師ではなく御茶道兼御坊主としてその名を見せ,宝永5年(1708)に没している。ここに又兵衛より絵師の家として岩佐派を率いた岩佐家は,3代目にしてその活動に終止符を打ったといえよう。これに対し福井で又兵衛の画風を伝えたのは,町絵師化した工房出身の絵師であったと思われる。なお以重以降の岩佐家はのちに数家に別れ,なかでも本家は陽雲の号を少なくとも数代に渡り使用したようである。しかも2代目陽雲に到っては『古画備考Jに福井藩御用絵師で狩野派の奈須泉石門人として,また「奈須永丹御添帖控」に絵の取次者として名が記されるが(注2),藩に再び絵師として仕えることはなかった。ところで『岩佐家譜』には,勝重の弟の存在が記されている。名は等哲で雪翁とも号し,長谷川等伯の養子となり,江戸城開聞の聞の障壁画を描いたとされる。等伯の養子の記述は時代的に無理があるが,長谷川等哲(徹)と名乗る絵師は実際に存在している。しかも勝重と活動年代を等しくし,江戸城の一室に蹄踊を描いたことも資料的に裏付けられることから(注3),勝重との関連とあわせてその存在は考慮、される必-299-

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