要があろう。そのイ也の示会師たち勝重や陽雲は又兵衛の流れを継ぐ絵師として従来より知られていたが,彼ら以外にも記録や作品から,名前の確認できる絵師もいる。岩佐貞雲は岩佐家に伝わった系図や,岩佐家の菩提寺である興宗寺の資料にもその名は見られない。しかし福井藩の記録によると,貞雲は松岡藩の絵師ではじめ又三郎と称するが,延宝7年(1679)の剃髪を機に貞雲と改名したと記される。この時期は初代陽雲の活躍時期と重なることから,貞雲を勝重の子と見るべきかも知れない。しかし別の記載によると2代陽雲の弟,つまり初代陽雲の子とあり俄には決しがたい。作品は現在二点が知られており,何れも「土佐末流岩佐貞雲筆jの落款と,「岩佐」白文方印と「重弘」朱分円印が捺される。面貌表現に又兵衛様式を僅かに留めるのみで,全体的に形式化が著しい。また筆者は実見していないが幽彩軒の号を記し,「岩佐」の方印と「勝親」と読める印のある作品が福井にあったことが報告されている(注4)。『古画備考』に浮世又兵衛の項をたてて勝親の名を載せており(注5),あるいは両者は同一人物で,岩佐家とも何らかの血縁関係のあった福井の絵師かとも推測される。その他にも「勝友Jの落款のある「源氏物語図扉風」(出光美術館蔵)がある。又兵衛様式の画風や「勝」の字の使用から,岩佐家ないし岩佐派に連なる可能性が考えられ,又兵衛より時代の下る人物と考えられる。原色を多用し,所々にたらし込み風の描写が見られるのが注目され,その洗練された画風から福井以外での活動が想像される。ただ捺される印文が判読できないため,従来いわれるような岩佐姓であるかはなお検討を要する。そして「道倶」(偵か)朱分方印を捺す歌仙図は〔図3〕,又兵衛の「道謹j印と形態が通じ,作者の画系意識を垣間見せる。また印文不明の「職人尽図」〔図4〕も又兵衛作品と共通する図様で描かれており,ともに見過ごしがたい作例である。ただ又兵衛作品と比較するとき,両者は表現に硬化傾向を有する事から,又兵衛の次世代,勝重から陽雲にかけての活動期が想定されよう。-300-
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