鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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だろう。この図様の継承,すなわち「型jは様式とともに自分の属する画系を示す大事な要素であった(注7)。岩佐派についても明らかに作者や時代が異なるが,その図様を一つにしている例が数多い。例えば舟木本の右隻,豊国神社前での喧嘩の様子は,そのまま「誓願寺門前図扉風J(京都文化博物館蔵)に転用され,さらには「歌舞伎図巻」(徳川美術館蔵)へとほぼ図様を等しくして描かれている。また又兵衛の得意とした歌仙図についても,図様がそのまま使用されている例が数多い。これらは当初,制作の手間を省くための合理的な方法であったと考えられるが,やがて派の型として画系意識も加わって連綿と受け継がれていったと考えられよう。す法や構図まで一致する模写に近い作品から,又兵衛様式を基礎に新たな画風を示す作品まで,又兵衛の画風は多様な展開をみせた。「熊野権現縁起絵巻」(大分・津守熊野神社蔵)〔図6〕は,画面構成や彩色法,装頼や詞書の書体などに又兵衛の絵巻と共通する部分が多く,そこから本図の作者は又兵衛工房出身,ないし縁の深い絵師と考えられる。しかし人物の表情は又兵衛というよりは,むしろそれを離れて作者自身の表現へと変化している。また背景の山水や樹木の描写にも又兵衛画とは異なる表現が見られ,又兵衛画風の新たな展開を見る上でも見過ごしがたい。本図の絵師は工房を主宰しでかなり精力的に活動したと考えられ,「山中常盤物語絵巻」と同じく津山松平家に伝来した「村松物語絵巻」(王舎城美術宝物館蔵)は,その特徴的な描写から,本工房での作と考えられる。しかもこの工房で制作されたと考えられる「江戸名所図扉風」(出光美術館蔵)や「江戸名所遊楽図扉風」(細見美術館蔵)の存在は,本図の作者が江戸の又兵衛工房の出身者で江戸を拠点に活動した可能性を有しており,これらは岩佐派の展開を考える上で一つの示唆を与えてくれる。結びこれまで又兵衛没後の岩佐派の絵師と,岩佐派内における画風の継承がどのように行われたかについて述べてきた。岩佐家の活動自体については又兵衛・勝重・陽雲の3代,17世紀でその幕を閉じたが,彼ら以外に名前の判明する幾人もの画人の存在が確認できた。また又兵衛作品が派の「型」として重要視されたことも窺えよう。そこには一つの画派として,岩佐派が想像する以上に層の厚いものであることが理解され302-

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