鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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⑧ 1920-1930年代のフランスにおける美術と文学との関係一一一パルテュスをめぐって一一一研究者:福岡県立美術館学芸員竹口浩司1 問題提起1999年6月から9月の間,フランスのデイジョン美術館において,「パルテュス,モルヴァン地方のアトリエ,1953年から1961年」と題された展覧会が開催された。この展覧会は,画家パルテュスが,それまで20年間アトリエを構えてきたパリを後にしてモルヴァン地方に住み,そこで描いた絵画作品を集めたものであった。モルヴァンの土地が描かれた風景画を始め,室内の少女を描いた絵画など約30点が展示された。パルテュスの絵画を考えるとき,〈木のある大きな風景〉〔図l〕に見られるような装飾性は重要な視点となる。惰鰍的に眺められているがゆえに奥行きの浅い,平面的な構図が採られ,それぞれの形態が幾何学的に整えられ,木の枝振りも律動的に描かれている。そして,絵画が掛けられる壁に負けないほどの物質感が油絵の具によって与えられている。ただし,パルテュスの絵画に見られるこの装飾性は,その主題が少女となると,女性を「もの」にまで庇める画家の暴力的な志向性,あるいは画家の性的視線として敷街されてきた。その端的な例がリンダ・ノックリンのフェミニズム的解釈である。ノックリンは,〈少女と猫〉〔図2〕を取り上げて,次のように説明する。この絵の前に立つ観者が女性であるならば二つの道しか残されていない,男性として見るか,あるいは男性が作り上げた女性の魅惑的な受動性・従順さといったものを承諾し,いわばマゾヒスティックな喜びに身を染めるかである,と。もっとも彼女は,そういった視線を画家自身のそれへと短絡的に還元することは避ける。この作品が社会の中でいかなる役割を期待されてきたのかに注目する。彼女によれば,この作品を巡る言説には二種類あって,一方ではそのエロテイシズムが取りざたされ,見る者をどきまぎさせるような見せ物として語られ,他方では,自然、主義に則った全き「芸術作品」として,フランスの1930年代を席巻した「秩序への回帰Jという権力志向の具現として語られてきたのだが,結局これらの言説は女性の不在を前提としているのだ,と。つまり女性の,社会的領域における自己規定力と絵画表象の領域における批判力,これらのものが剥奪され欠知しているのだ,と言うのである(注1)。実際のところバルテュ-306-

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