鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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スが「秩序への回帰jへと回収されることはなかったし,むしろその余剰こそが文学者によって支持されていたのだから,ノックリンの歴史認識の浅さは弁難されてしかるべきである(注2)。しかし,パルテュスの少女が描かれた作品が「女性の不在」でもって見られるしかなかったという状況の指摘は考察に値する。ここには,1930年代のフランスにおける「レアリスム」や「性的なもの」をめぐる美術と文学との関係が反映されている。本研究の問題提起もここにある。1934年,パリのピエール画廊で,パルテュス初の個展が開催された。展示されたのは,〈窓〉〔図3〕や〈街路〉〔図4〕をはじめとする5枚の絵画である。この展覧会に触れる記事はわずか四つを確認できるだけである。その四つのうち三つまでが,展示された作品の過剰なる狼雑さを一斉に非難する。『コメディア』誌はパルテュスを「絵を描くフロイト」,「度を超した色情狂」と断じ(注3),『ボザール』誌は,この画家が「いわゆるスキャンダルを巻き起こすという程度のちょっとした成功を収めるだけだ」と,絵画的な質の欠如を表面上の派手な狼憂さでもって覆い隠している様を部撤した(注4)。さらに,画家兼理論家のアンドレ・ロートは,画家マルセル・グロメールの「堅固に構築された絵画作品」を際立たせるためにパルテュスを引き合いに出し,その絵画制作の技術が彼個人の「悲痛な性的不安」に負けてしまっていると詰る(注5)。しかし,こういった状況をパルテュスは,「成功」だと言う。展覧会開催後すぐに友人マルグリット・ベイに認めた手紙の中で,「この展覧会は(……)大きなセンセーシヨンと幾多の議論を生んだ。何らかの影響力を持ち合わせた人間ならば,ショックを受けるか興奮するか,深く感動するか,それとも熱狂的になるかであるし,世論に従っても,この展覧会はここ10年でもっとも重要な展覧会であると言える。(……)私はただ,ゴングを強く打ち鳴らし,何とかして人々を揺り起こし,さらに意識させたかっただけなのだ。私は成功したのだと思っている」と(注6)。もっとも,同じ手紙の中で告白しているように「金銭的には悲劇的状況」ではあった。これらの言葉を鵜呑みにすることは出来ないが,パルテュスの意図の中に「スキャンダル」ゃ「センセーション」を起こすことがあったのは確実なのだ。そもそも,今私たちが見ている作品〈窓〉と〈街路〉は,それぞれ1962年,1955年に画家自身の手によって修正が施された2 美術批評の言説307

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