鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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ものなのであって,当初,〈窓〉の少女は異様な形相を浮かべ,〈街路〉の左下で少女の怒りを抑えるかのように少女を抱きすくめる青年は,その右手を少女の股聞に当てていた。ただし,1934年のパリにおける「スキャンダルjとはどのようなものだ、ったのだろうか。というのも,単純に性的イメージが描かれているというだけであれば,大したスキャンダルにもなり得まい。問題は,それらが自然主義的な手法で描かれている,ということなのだ。様式的に見ればパルテュスの絵画は,当時のパリを席巻していた「秩序への回帰」の傾向にも組み込めそうなものなのだ。ここで,ピエール画廊で、のパルテュス展に対する非難を思い出してみよう。非難の焦点は実は,「度を超した色情」や「悲痛な性的不安」を抑えることが出来なかったパルテュスの乏しい絵画的技量に当たっていた。アンドレ・ロートは,パルテュスの〈街路〉を暗に指して,「パルテユスがこの生気のない自動人形たちに,自動人形としての精密さ,ヒステリー症のこわばり,困惑するほどの重々しさを与えることもできなかったのは,トロンプ・ルイユという身だしなみある技術のせいではない。遠く昔から受け継がれてきた人間の欺摘が,悲痛な性的不安寸前の所で彼を踏みとどまらせた,とするのが妥当だ」と言う(注7)。「トロンプ・ルイユの技術」とはここでは自然主義的技法を意味するが,その技法そのものが問題なのではなく,あくまでもそれをきちんと使いこなせないパルテュスの技量あるいは人格に問題があるのだ,と。パルテュスが非難されるのは,一見自然主義的でありながら,イデオロギー的にもそこから逸脱する性的イメージを持ち合わせているからこそ,なのである。ただしこの展開は,「スキャンダル」を引き起こそうとしていたパルテュスの半ば予想通りであったに違いない。パルテュスは,1934年の展覧会に出展した〈街路〉の前に,既に1929年に同じ主題を描いている〔図5〕。ここにあの「スキャンダル」なカップルの姿が見当たらないことよりも,何よりも大きな違いは,その描き方にある。1929年の作は,規則正しい大きな筆触を併置していくやり方で描かれており,1934年の作と比較すれば仕上がりの徴密さを格段に欠く。パルテュスは1932年にパリにアトリエを構えるようになるのだが,それ以前に描かれた絵画は概してこれと同様の筆致が採用されていた。つまりパルテュスは,1934年の展覧会において「スキャンダルjを引き起こせるようにとそれ以前の様式との訣別を図った,とも言えるのだ。1932年以前の様式には,彼が十代の頃から親密に交際し,多大なる影響を受けたピエール・ボナー308

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