鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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ルやモーリス・ドニの影響が窺える。その意味では,1932年以降のパルテュスの様式,対象の輪郭や量塊の凹凸に沿って絵の具を丹念に塗り込んでいくそのやり方には,同じく親交を結んでいたアンドレ・ドランの影響を見て取ることも出来ょうか。ドランこそ,1930年代フランスにおける[秩序への回帰jの傾向における頭領の一人でもあった。パルテュスにとって「スキャンダルjという社会現象は,自らを芸術家として社会に示す手っ取り早い方策であった。そもそも彼は,ポーランド系の貴族の血を引く美術史家の父エリック・クロソウスキーと画家の母エリザベス・ドロテア・シュピロとの聞に生まれ,それゆえ幼少の頃から多くの芸術家たちと親交を持ってきた。1921年,パルテュス13歳の年には,ライナー・マリア・リルケの尽力により,彼の序文が付されたペン画集『ミツ』がチューリヒから出版されたり,1929年には,ドニやボナールの尽力により,同じくチューリヒで展覧会を実現している。つまり,パルテュスを芸術家として認めてくれる私的な場は早くから用意されていたのである。しかし,1934年のパルテュスは,その場を社会へと拡大,転換させることを期待していたのであった。パルテュスはそこで美術批評家から非難されることによって自らを否定的にも「芸術家jとして仕立て上げるという,逆説的な方法を取ったのだ。それゆえにパルテュスは,画家自身の「度を超した色情」や「悲痛な性的不安jと結論付けられるような相のもとに女性を描くと同時に,「芸術作品」然とした形式,つまり「自然主義的」と見なされうる様式と,一辺1メートルを越える近代絵画にしては大きなサイズとを,特に1934年の展覧会出展作においては誇張するのである。しかし従来,多くの論者が,パリ時代の少女を描いた絵にこそパルテュスの本質的感受性があるとみなしてきた。それは,これらの絵画にパルテュスが世俗的とも形容できる期待を込めていた事実が軽視しされてきたのと同時に,絵画の独自性と画家の人格とが短絡的に結びつけられてしまったがゆえである。しかしこの見方は実は,1934年のパルテュス展を非難した美術批評家たちによって作られたものではなく,それに対してパルテュスを称賛した文学者たちによって作られたものなのだ。1934年のパルテュス展に際して,唯一称賛の意を公表したのは劇作家アントナン・アルトーであった。アルトーは次のように始めている。「野獣を描き胎児を引き出すの3 文学者の言説-309-

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