鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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ハUつdに疲れた絵画は,どうやら一種の有機的なレアリスム(realismeorganique)に立ち戻ろうとしているかに見える。このレアリスムは,詩や神秘的なもの,謎めいた物語を避けるどころか,かつてないほどにそれらを目指すものである(……)。(……)自分の持つ手段,自分のはらむ潜在的な力を自覚した画家が,外の空間に決然と入り込むのであり,ついで、そこから,物たちを,身体を,形を取りだして,程度の差はあれ霊感を受けたやり方で,それらを操るのだJ(注8)。アルトーはパルテュスの絵画を「有機的なレアリスム」と形容し,その詩的な独自性を主張するが,しかしそれは,例えばアンドレ・ロートがグロメールの裸婦の中に認める「叙情性jと大差はない。違いがあるとすれば,「性的」なイメージに対する語りである。要するにアルトーは,パルテュスの絵画は「性的」に過ぎるからこそ価値がないとする美術批評家の見方に対して,「性的jであるからこそ価値があると,その図式を転倒させているだけに過ぎないのだ。もちろん,「性的jという言葉の意味するところが両者の間で変化していれば,それを単純に「図式の転倒」と言うことはできない。しかし,文学者がパルテュスの絵画のなかに認める「性的」イメージは,相変わらず,「残酷」で暴力的なものでしかあり得ない。アルトーは次のように言っている。「今ここで、私が語っている裸像は,何か乾いて,厳しく,また正確に満たされたもの,さらには残酷なものと言っておかねばならぬものを持っている。それは人を夢へと誘うが,しかしその危険を隠してはいない」(注9)。女性に対する暴力的視糠は美術批評においても文学においても等しくあったのだし,そこに人格の本質を見出すような半ば過剰反応とも言うべき傾向も等しくあったのだ。この傾向は,アルトー以降,パルテュスを称賛する文学者たちー一一ピエール・ジャン・ジューヴ,イヴ・ボヌフォワ,そしてパルテュスの実兄ピエール・クロソウスキーーーにも引き継がれていく。アルトは「ダヴイツトの時代の技術が,現代の,残酷な発想に奉仕している,そしてその発想はまさに病める時代のそれで、あって,陰謀を企てる芸術家は,現実世界を用いてそれをより確実に十字架にかけようと図るのだJと述べ,ジューヴは「場面設定や着想,絵画から実際に感じられる雰囲気の中に,特異な,筆舌に尽くしがたい裏の能力の現前が見出せる」と述べ(注10),ボヌフォワは「いくつもの特徴が忘れられたり否定されたりしており,そこからして,パルテユスと感覚界の現実との関係の胡乱さが性急に告白される,不遜で残酷な本性の芸術が成り立つのだjと述べる(注11)。パルテュスと暴力性との結び付きに着目する傾向は,

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