つJピエール・クロソウスキーにあって最高潮を迎える。「自分自身の情動に加えられる暴力(……)によって,彼は事物から生を引き剥がし,生の外に,ある存在論的な現実の中に置くのであるjとクロソウスキーは述べている(注12)。パルテュスの暴力的視線をこのように評価する立場が引き継がれた結果,〈トルコ風の部屋〉〔図6〕を指して「この柔和で魅惑的な世界には,アルトーがとらえた覆い隠された恐怖と冷笑的なユーモアとはもはや存在しない」,「そこに見られるのは,形態への関心(……)と自らの名人芸を披露するマンネリズムだけである」と説明するマイケル・ペピアットのような論者も登場する(注13)。セルジ、ユ・フォシュローは,ユダヤ系ポーランド人ブルーノ・シュルツとパルテュスとの類似性に注目すべく,大戦間期にパルテュスと親交のあったポーランド系の文学者たち,つまりジャン・ジューヴやピエール・クロソウスキーの名を言い募る。ポーランドとは,いわゆる「近代国家」が「性」を抑圧する制度であるのに対して,性と政治との未分化を生きょうとするのだ,と説明する(注14)。ポーランドという出自に過剰なるオリジナリテイを与え,パルテュスを含めた彼らを十把一絡げに括る姿勢にも,「近代国家jが「性jを抑圧する制度であったという指摘には問題点が残るが,しかし,パルテュスを称賛する彼ら文学者たちこそが,パルテュスを「性(欲)」の中に閉じこめた張本人であったことは確かで、ある。「性(欲)Jを人格を構成する重要な要素として見なす傾向は,もちろんながら,フロイトの影響でもある。ビエール・ジヤン・ジューヴやビエール・クロソウスキーが精神分析学に精通していたという事実を指摘するまでもなく,この時期,「性」に関する言説は肥大していた。そのことを率直に示してくれるのが,1938年にニューヨークのピエール・マテイス画廊で開催されたパルテュス展に対する批評記事である。そこでパルテュスは,フロイトとドイツ新即物主義とに結びつけられて,語られる(注15)。アメリカとフランスとにおける「フロイトJという名が持つ意味の違いは,ドイツとの関係を考慮に入れてさらなる分析を要する問題であろう。次の課題としてここに挙げるにとどめる。とにかくもパルテュスは,このように装飾性とは無縁のところに追いやられるに至る。もっとも美術においては,装飾という問題圏は19世紀末から生成され続けてきた。しかし,まずもって「性的」という理由から文学へとその帰属領域を決定されたパルテュスの絵画は,それゆえに美術批評の文法とは異なるそれで語られることになる。
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