司Uルを歴史的に遡って提示する展覧会であった。また,この1933年という年は,シカゴで「進歩の世紀」というテーマで万博が聞かれた年でもあった。この展覧会もMoMAで1月18日から2月23日にかけて行われた後,プリンストン大学,ハートフォルドのウォッズワース・アテネウムをへて,シカゴ万博の時期に合わせてシカゴのマーシャル・フィールド&Co.に巡回している(注2)。あわせて,「近代建築」に先駆けたシカゴ派を展覧会で取り上げたことは,今日,非常に自然な流れとして受け止めることができょう。だが,シカゴ派に対する評価は,当時必ずしも高かったわけではなかった。「近代建築j展のスタッフの一員としてハウジング部門を担当した,都市論を中心とする文明批評家ルイス・マンフォードは,1931年に書いた『褐色砂岩の時代Jで,「シカゴ派jを「近代建築jの先駆けとして高く評価し,ヨーロッパよりも先んじていたことを強調しているが(注3),わずか7年前の1924年に出版したアメリカ建築の通史『木材と石材』では「シカゴ派Jに関して全くといってよいほど記述がない(注4)。この本が史的に見て完全に視界から抜け落ちていた。」(注5)と述べている。また,ニューヨークで建築の設計にたずさわると同時に,コロンピア大学で建築理論の講師をつとめていたタルボット・ハムリンが1926年に出版したアメリカ建築史の本でも,「シカゴ派」が活躍した1880年から1900年にかけての時期は「(歴史的)様式の闘い」の時期であり,その中で古典主義様式が主流となりつつあるとしている(注6)。ここでも「シカゴ派jの建築はほとんど完全に無視されている。さらに,この展覧会を行うに当たって担当のジョンソンが調査のために手紙で問い合わせていたトマス・E.・トールマッジは,『アメリカの建築の歴史』(1927年)の改訂版(1936年)で,シカゴ派に関する記述を大きく書き換えている。特にサリヴァンをあつかった第9章は,章の題名が「ルイス・サリヴァンと失敗に終わった運動jから「ルイス・サリヴアン,親と預言者」に変更されるなど,記述に180度の転換が見られ,次のように書いている。建築史におけるサリヴァンの適切な位置づけに関してここ5年の聞に非常に大きMoMAで,最新の約10年間の建築を展示した「近代建築J展に続き,シカゴ万博に1954年に再版された時につけ加えられた序文で彼は,「1924年までシカゴ派の仕事は歴
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