鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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一317-な変化が起こった。サリヴ、ァンは,「新しい建築J,あるいはより正確だと思うのは「インターナショナル・スタイルjとして知られている広範な建築における現象の真の父とますます見なされるようになったのである。そして例えば交通館が「進歩の世紀」の真の先駆者であること,またサリヴァンの機能主義の哲学がル・コルピュジエ,グロピウス,レスケーズそして他の今日の国際主義者たちによる仕事の基礎となっていることが示せたなら,サリヴァンの偉大さは真に巨大になり,新しい様式の創造者たち,すなわちカリクラテス,イソドルス,シャルトルの建築家とブルネレスキと並ぶ,まさに巨匠たちの中の席に着くことだろう(注7)。ここでの「進歩の世紀jとは1933年のシカゴ万博のことを指しており,「交通館」はサリヴァンが設計した1893年のシカゴ万博のパヴイリオンである。以上のように,「初期の近代建築」展が行われた時期は,シカゴ派に関する評価が大きく変化しつつあった時期であり,シカゴ派を近代建築の起源として展覧会で提示することは,MoMA のはっきりとした姿勢を示したものであった。マスコミのレベルでは,1930年にクライスラー・ピル,1931年にはエンパイア・ステート・ピルが建てられたニューヨークこそが「摩天楼jの街であると,シカゴを近代建築の起源とすることに対する批判もあった(注8)。こうしたマスコミの反応と比べ,「初期の近代建築j展は,シカゴ派の代表的建築物であるタコマ・ピルとホーム・インシュランス・ピルがそれぞれ1929年と1931年に取り壊された際の調査に基づいており(注9),調査と史実に基づいた客観的なものであった。だが一見客観的に見えるこの展開にも,美術館の操作が含まれている。それは,シカゴ派の建築家たちが特に美学的な建築運動として行わなかったものを,形態的な共通性から先駆けとして位置づけるという点においてである(注10)。もちろん,西欧の近代絵画に影響を与えた日本の大衆版画である浮世絵やアフリカのプリミテイヴな彫刻など,特に美術として制作されたのではないものを,美術館に展示することで美術として見なすということは,決して珍しいことではない。むしろこうした制作者の意図を超えた解釈は美術館が本質的にもつ機能であるといってよい。だが,そのことと,「先駆け」として歴史的に位置づけることは別のことである。その背後には,アメリカの建築をヨーロッパに対して優位に位置づけたいという意

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