鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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図もあっただろう。当時の西欧の「前衛Jと比べて,アメリカの美術は遥かに遅れをとっていた。印象派,キュピスム,フォーヴイスムなど,重要な美術運動はパリを中心としていた。だが,その後,ヨーロッパの周辺地域であったオランダやドイツ,ロシアなどから,建築・デザイン・舞台芸術なども含む総合芸術を指向するデ・ステイルやパウハウス,ロシア構成主義などが台頭した。こうした動きをいち早く知り,アメリカにも同様の芸術を根付かせようとしたのがMoMAであった。MoMAは開館当初から建築や映像なども美術のージャンルとして絵画や彫刻と同等に展示・収集の対象としようという理念を持っていたが,この理念自体,絵画や彫刻では遅れをとっていたヨーロッパに対してアメリカを優位に位置づけたいという希望が含まれたものであったのではないか。「初期の近代建築J展の模型「初期の近代建築j展には,模型3点,写真35点が出品された。絵画や彫刻とは異なり建築は美術館に実物を展示することはできない。実物大のモデルならば,MoMA では1949年,庭にマルセル・ブロイヤーなどの実物大の住宅を展示したこともあるが(注11),通常は模型,写真,図面,ドローイングなどが使われる。当初から巡回を予定していたこの展覧会は,巡回先の参加を呼びかける手紙で,模型と写真が二箱に収まることをアピールしている(注12)。この模型は3点で一組で,石造から鉄骨に至る高層ビルの技術的発展を図式的に示している〔図l〕。台座には「石造から鉄へ」と書かれており,左から右への「発展Jの印象を一目瞭然に示している。鑑賞者にとってわかりやすいという点では,美術館の教育的役割から考えてもすぐれた模型だといえる。だが,この模型の「発展」のイメージがこの展覧会において非常に重要であり,MoMAの戦略にかなったものであったことを見落としてはならない。石造から鉄骨へという発展はヨーロッパの建築美学が19世紀末から1920年代までにかけてたどった変化である。確かに,ロンドン万博の水晶宮や鉄の橋など鉄骨の構造物は19世紀半ばからヨーロッパにもあったが,それはあくまで技師の領域であり,美学的な建築の領域とはみなされてこなかった。だが,それを生活の空間である住居に持ち込み,美しいものとして提示したのが,「近代建築J展に出品されたル・コルピ、ユジエなどによる,1920年代に頂点を迎えた建築運動であった。

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