は姿を現すことはない。なぜなら,意味作用は分節作用=切り分けからしか生まれないからである。連続体を弁別的な連辞的単位へと切り分ける能力があるのは「中継または記号内容としての言葉」であり,絵画におけるこの切り分けを可能にする理論的前提は「見うるものと名づけうるものとの不可分離性という前提jである。こうして,「絵画の大連辞は言語活動によって中継されることができ,この中継によって,この連辞は表意的総体(巴ns巴mblesignificatif)として分節され構成されることが可能となるJのである。例えば,歴史画においては,文学的説話の記号表現が絵画の説話の記号内容となり,説話の記号内容によって分節される絵画の連辞的諸単位=諸形象が,タブローの「意味Jの諸単位となる。風景画や静物画のように文学的説話をもたない絵画についてもこの原則は当てはまる。この場合では,「タブロー内で名づけうるもの,つまり樹木とか小川とかクリスタルグラスとかギターとかがわれわれにゆだねられているJのである。絵画における連辞がわれわれの目の前にあるタブロー内の諸形象の連結関係によって構成されている顕在的な関係であるとすれば,範列(もしくは連合)はタブロー上のある形象とそこに現れていない諸形象との潜在的な関係を指す。連辞の内に発見される隣接性の現実的関係に,代入の潜在的関係が対立もしくは節合するのである。つまり,「一幅のタブローの読解は,連辞論的な諸カテゴリー,すなわち知覚・現実感・現前感・読解の連続要素(シークェンス)への分割・連辞的隣接性によって結びつけられた諸形象を使用する」と同時に,「各々の形象は記憶の内に,〈不在の状態で〉潜在的系列の内に連合された諸形象のークラスを喚び起こす」というわけだ。範列=連合によって切り聞かれる空間は広大で、あり,「この空間にはもろもろの形象からなる代入的系列が聞かれているJ。タブロー上のある形象は,この範列空間のいわば星座の中心であり,「その総計が無限である他の整合された諸項がそこへ収敬する一点」である。そして,「絵画における範列の諸系列が及ぶ範囲は,一画家の作品が構成する閉じられた体系の内部から,この画家の作品と同時代の絵画群へ,さらには絵画一般にまで拡張可能で、ある」とされ,「こうした展望においては,系列は常に聞かれており,その範列的空間内での読解は間テクスト的(intertextuelle)なものとなるJのである。とはいえ,一見詰漠としてみえる範列空間にも限定もしくは方向づけのベクトルが働く。ソシュールが,記号表現(音声)か記号内容(意味)かに従って連合関係のごつのタイプを区別したように,マランは,形態(記号表現)の類推による範列系と意味(記号22 -
元のページ ../index.html#33