鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
339/763

加した,と考える方が自然のようである。各人は,着衣の形や色,また動作の点で,必ずしも「西国雅集図記」の記載に一致しないのだが,右隻においても部分的に比定が可能のようだ。たとえば「西国雅集Jで筆をとるのは,蘇戟のほかは李公麟(「帰去来図Jを描く)なので,紙に向かう人物は李公麟と考えられそうである。高士の数も一双で14人を数え,これは「蘭亭曲水」の41人よりも「西園雅集」の16人に近い(注2)。この画題の二重構造は何を意味するのだろうか。本来の構想、としてありうるのか,あるいは制作過程で変更が加えられたのか,現時点で有効な理由を想定することはできない。前者であれば,東晋と北宋という異なった時代の文会を二重うつしとした珍しい扉風となる。後者とすれば,蕪村が「西国雅集Jをある程度まで描き終えた段階で,何らかの変更の要請が入ったために,流暢とー童子を描き加え,さらに「蘭亭序Jの揮去を依頼して,蘭亭図への変身を図った,というようにも想像される。なお書の款記に「明和丙成歳亀峰翠昌史麿需寓之」とあることから,明和3年(1766),天竜寺三秀院の堅承翠屈が頼まれて揮呈したことが判明し,制作時期も,画風からほぼ同時期と考えられている。先の疑問に対しては,今後の課題としたい。画題再考2 池大雅筆/与謝蕪村筆「龍山勝会図扉風」について大雅は「龍山勝会・蘭亭曲水図扉風J(紙本著色静岡県立美術館)〔図3〕・蕪村は「桃李園・龍山勝会図扉風」(統本著色,MOA美術館)〔図4〕を描いており,ほかに蕪村の「龍山落帽図」(1幅,統本著色,出光美術館)〔図5〕が現存する。制作時期は,大雅の扉風が宝暦13年(1763)7月,蕪村の掛幅が同年9月で,無年紀の蕪村の扉風も,画風から明和初め頃と考えられており,三者ほほ同時期の作である。「龍山勝会図」については,「孟嘉落帽」の故事を描いたものと常に解説されてきた。すなわち『世説新語Jと『晋書』「孟嘉伝」に記載があり,『蒙求』に「孟嘉落帽Jの標題で収録される故事である。少々長くなるが,確認のため,次に『蒙求Jの記載を引用する。晋書にいふ,孟嘉字は万年。江夏の人なり。少にして名を知られ,征西桓温の参軍と為る。温甚だ之を重んず。九月九日,温龍山に燕し,寮佐畢く集まる。時に佐吏並び328

元のページ  ../index.html#339

このブックを見る