内容)の類推による範列系があるとし,そこから,「範列系の二重の一一ひとつは〈様式〉により他は〈テーマ〉による一一方向づけが可能である」と推論している。タブローを「読む」ということが,単に視線の一覧にとどまらず,解読/解釈でもある限りにおいて,読みの行為の中には解読/解釈上のコードが単数もしくは複数含まれている。[解読の位層化された多様なコードのおかげで,絵画作品のよりいっそう深い理解に到達しうるかもしれない」のである。マランは,絵画のコードを論ずるにあたり,特に知覚的コードを取り上げ,このコードの提起する記号学上の重要な問題に注意を促している。「その問題とは意味と指向対象との区別であり,この区別は図像的類推によって隠されているために,このコードに基づくタブローの読解をとりわけ困難にしている」のである。絵画作品において,知覚のレベルで混同されがちな「意味と指向対象Jを,記号学は厳しく弁別する。「意味とは,もはや観念のように主観的で、はないが,しかしまだ対象そのものではないもののことだ。誰かが望遠鏡を通じて月を観察するとしよう。私は月そのものを指向対象に対比する。月は,観察の対象であるが,望遠鏡の対物レンズが投射する現実的イメージと観察者の網膜に映るイメージとによって媒介されている。前者のイメージを私は意味にたとえるが,後者のイメージは観念または経験のようなものである」というフレーゲの言葉に依拠しつつ,マランは次のように述べる。「同様にして,私が一幅のタブローの上に一本の木なり一人の人なりを知覚するとき,世界の対象としてのその木なり人なりは指向対象,すなわちタブローによって指示されたものである。一方,タブロー上のイメージが意味であり,私がこのイメージについてもつ経験/観念はそれ自体,意味とは異なるものである」と。したがって,指向対象と意味の混同を招きやすい具象絵画に対して,いわゆる抽象絵画がもたらしたものの一つは,「指向対象なしに一定の意味を表現できる可能性を出現させたことであり,再現の類推的コードが隠しているのはこの可能性であるJとされるのである。絵画という形象的テクストの読解において,「諸形象は絶え間無く形成され,解体され,再び形成される」という不安定性が現れる。「読解ごとにそこに置かれる力点は置き換わり,そのときいくつかの記号が忽然として現れ,それらの記号に相次いで読解が依拠し,瞬間ごとにそこに新しいエネルギーを転移させるjのである。この意味で,絵画は,「新たな読解ごとに,新たな句読点を,その記号とその語の新たな分節作用を啓示するようなテクストjであり,意味の多数性を散布する装置であると言えるだろ一23-
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