鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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っdqJ 事をふまえている。このように図様のみならず画の内容においても,大雅の扉風と画譜との聞に共通項が認められるのである。画譜採用の可能性は高いといえよう。他の中国画としては,『詩余画譜』(万暦40年・1612序)に蘇載の詩「重陽」と併載される図〔図7〕(詩中2行目「破帽」の語によって孟嘉の故事が意識されている)(注4),呉彬筆「歳華紀勝図」(絹本著色,台北・故宮博物院蔵)のうち「九月・登高」〔図8〕の二点が見出された。ともに台地状の高所を描く点で,蕪村の二作と共通する図様である。ただし山中の高台という環境設定,青緑山水という技法において,蕪村の画は呉彬の画の方により近い。蕪村に示唆を与えた,呉彬画に類する何らかの中国画が存在したのかもしれない。2)重陽の日の登高これまでの考察中に散見する「重陽」「登高」の語に留意したい。日本において重陽の節句といえば菊花がまず連想されるのに対し,中国では古来,この日に災厄を被うため,呉莱頁(ミカン科・カワハジカミ)の実を入れた赤い嚢を身につけて高所に登り,菊花酒を飲むという習慣がある(注5)。杜甫の著名な七律「登高」も,重陽に際し詠じられた詩である。大雅・蕪村・画譜・呉彬による計六点の画は,いずれも重陽という節目の行事,登高を描いたものと理解される。呉彬画が「登高」と題されていることを参照すれば,「登高図Jの一群として認識することが可能だろう。すなわち「重陽登高一孟嘉落帽(龍山勝会)」は連鎖的に結ぼれる。では,これらのイメージに支えられる「龍山勝会図」が大雅・蕪村によって描かれるためには,どのような背景があったのだろうか。当時の詩文集に探ることとする。3)同時代の詩文集からともに京都の儒者である龍草塵(龍公美,1714〜92)と皆川洪園(1734〜1807)の文集に,「登高」に関わる詩を見出してゆく。論旨の都合上,『胸中屋集』からは題と本文,『j其園文集』からは題のみを掲出した。(原本の訓点にもとづき筆者が訓読。漢字は新字体・通行の字体を使用した。)(注6)『州塵集』①九日高に登る(初編巻之三)幾年か客と為て此に台に登る城上の秋陰欝として未だ聞けず

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