※この詩につづき,「登高」に関わらずに重陽に詠じた詩二首が掲載される。※⑬⑭は,題に重陽を示す語はないが,詩句中のそれぞれの語「九日」「菊澗」から,重陽の宴と知られる。※以上,下線,()および〔〕内注記は筆者による。重陽唯だ恥づ樽酒の乏しきを龍山落帽の遊に似ず『洪園文集』⑤九日正護院村愛晩亭の小集韻を分て八庚を得(七言古詩・巻之ー)⑥九日諸君と同じく霊山に宴す林義卿が韻を次ぐ(七言古詩・巻之ー)⑦九日諸君と同じく霊山に宴す良伯耕が韻を次ぐ(五言律詩・巻の二)③九日柴子彦と亮水の米家楼に宴す(七言律詩・巻之二)[柴子彦は柴野栗山]⑨丙午の九日諸君と東山の春雲楼に宴す(七言律詩・巻之二)[丙午は天明6年・1786] ⑬辛未の九日(五言絶句・巻之三)[辛未は宝暦元年.1751] ⑪九日高に登る友に寄す(七言絶句・巻之三)⑫九日友に寄す(七言絶句・巻之三)⑬季秋春雲楼小集席上釈の瑞亮紀伊に帰るを送る韻を分て尤を得(七言絶句・巻之三)⑭季秋春雲楼小集席上井上亘が阿波に帰るを送る韻を分て陽を得(七言絶句・巻之三)重陽の日に関して,まず龍草鹿の詩からわかるのは,「登高jと賦詩とが習慣化していたらしいこと(①〜③),「登高jを行なわない場合にも詩を詠じたこと(④),その際「孟嘉落帽」の故事は重陽の雅集の理想、として草塵の意識に定着していたこと(①②④下線)である。いっぽう皆川洪園の詩の題からは,諸友が宴を聞き詩会を兼ねたこと(⑤⑥⑦③①⑬⑭),詩を贈答したこと(⑪⑫)が知られる。ただし漠園の詩句に「孟嘉落帽jはほとんど詠みこまれず,唯一③の第六句「参軍筆健にして好く瑚を酬ゆるにJ(参軍は孟嘉をさす)に見られるだけである。すなわち江戸時代中期の漢詩人たちの聞では,重陽に登高と詠詩・詩会が習慣的に-332-
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