行われ,しばしば「孟嘉落帽Jの故事が想起されたらしい。大雅と蕪村の「龍山勝会図」を取りまいていたのは,このような状況であった。ここで大画面の扉風の性格として,ある程度広い室内空間に配され,複数の人々が集う場を設定する調度としての役割を考えるとき,「龍山勝会図扉風」が置かれるのにふさわしい場として,重陽の宴の席が想定されないだろうか。そこで扉風は,「登高」を疑似体験させると同時に,その宴を桓温・孟嘉のそれに擬すことを容易にしただろう。詩才ゆたかな参軍・孟嘉は,重陽の日のヒーローであった。またそこでは詩が詠じられた。すなわち扉風は,疑似体験をよびおこし,詩の生成をうながすものとして機能したのではないだろうか。単なる「故事の絵画化」ではない,観る者の身体を刺激し,創作をよびおこす,生きた調度であったと想定したいのである。扉風の使用状況を記する具体的な裏づけ資料を見出し得ていない現在,憶測の域にとどまることを承知の上,上記のように見通しておきたい。そう考えてはじめて,大雅が「龍山勝会図jに描きだした空間の意味も納得されるからである。その三次元的な画面構成は,従来「新たな空間表現の試みjとして評価されてきたにすぎないが,この扉風を座敷に置けば,いながらに「登高」が楽しめる。孟嘉たちの座す場が手前,遠景が奥という配置は,基本的には版本から学ばれたようだが,鑑賞者の臥遊をうながすのに有効である。眼下はるかに遠景をのぞむという広大な空間設定は,おそらく「登高の疑似体験jという需要者側の要請にあわせて,画家が工夫し,描き出したものではなかったろうか。ただし「龍山勝会図」が重陽の席に置かれたとすれば,これと一双をなす「蘭亭曲水図Jや「桃李園図」は,三月三日上巳の節句に配されることとなり,各隻分けての使用を設定しなければならない。しかし,店、ずしもそのようには限定せず,各節目における一隻ごとの使用と,別の機会における一双としての使用と,双方があったものと現時点では考えておく。まとめ今後とも作品の画題と表現の実態に即しつつ「文人画」の理解につとめていきたい。その際,漢詩人たちの動きの把握が不可欠なものと考えている。漢詩文壇の動向を軸に考えることで,造形表現の面からだけでは把握の困難な,また17世紀,さらに室町時代へとさかのぼる,知識人の画事の系譜が見えてくるものと予想している。現在「丈-333-
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