鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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イアの事績とされてきたものにほかならない。ではなぜ、プリニウスの本来のテクストにはマルテイアではなく,イアイアの事績として述べられているのだろうか。ボッカッチョやアルベルティがプリニウスを「誤読」した可能性はつとに指摘されているが(注14),では具体的にどのように「誤読」したのだろうか。まず誤読は「マルクス・ヴァロの若い頃M.(=Marci) Varronis iuventaJという一節に由来する。ヴアロの名であるマルクスの属格Marciにいつの頃からかaが加えられた結果,「マルクス・ヴァロのjとヴァロの姓名が属格であるべきところが,「ヴァロの(娘)マルツイアjと解されるようになったようだ。しかしそれにしても,数世紀に亘つてなぜこれほど多くの著述家がイアイアではなく,マルテイアの名を記しているのだろうか。またプリニウスの本来のテクストの主語であるはずの「キュツイコスのイアイア」はどこへ消えてしまったのだろうか。このような疑問はヴェネツィアのサン・マルコ図書館において『博物誌J初期版本を幾っか実見することによってある程度解決した(注15)。『博物誌』の初版は,1469年ヴェネツイアにおいてヨハンネス・シュパイアー(ジョヴァンニ・ダ・スピラ)によって刊行されている。その最終葉には逸名の編者によって,従来の『博物誌』写本のテクストが如何に混乱を極めていて判読が困難で、あるかが述べられ,そのような状況の打開を目指してこの版が刊行されるのである,と記されている。もっともこの版のテクストは,後続の諸版に比べると句読点や改行が極めて少なく,判読が容易とはいえないのだが,イアイア/マルテイアに関わる個所は「LalaCizicena perpetua uirgo Martia Varronis inuenta Rome ... Jとなっている。ここでは句点がないために,読者が自ら任意に区切らない限り,イアイア(=ラーラ)とマルテイアという二つの主語が並存することになる。翌1470年にはヨハンネス・アンドレア・ブッシにより校訂された版が,ローマのスヴアインハイムとパンアルツトによって刊行され,問題の個所は「LalaCycicena p巴叩etuauirgo. Martia. M. Varronis iuu巴ntaRomae ...」とある。1472年には再び、ヴェネツイアにおいてニコラス・ジェンソンによる版が刊行されたが,こちらでは「Lalacizicena pe中etuauirgo. Martia. M. Varronis iuuenta roma巴...Jと記されている。これらの版では,現行テクストと比較するとはるかに頻繁に句点が用いられており,イアイア(=ラーラ)とマルテイアも異なる文章に属すことになる。ちなみに1476年に刊行されたクリストフォーロ・ランデイーノによるイタリア語訳では,さらに文章の区切りが異なり,「EsculapioLala cizicena sempr巴uergine.Martia nella giouentu di -341-

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