鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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342~ M. Varrone dipinxe di pennello a Roma. Jとなる。これら三つの版ではイアイアとマルテイアが同ーの文章に並存することは避けられているが,これではpe叩etuauirgoは,マルティアではなくイアイアについての事績ということになってしまう。パオロ・ピーノは古代の女性画家を列挙する際,マルテイアのほかに「キュツイコスのもう一人」をも挙げているが(注16),これなどは俗語,ラテン語を問わずこのタイプの版本に依f処したためであろう。いずれにせよこれらの初期版本を通観するとこの時期のテクストには現行テクストには見当たらないマルテイアの名が明記されており,テクスト自体が誤っていたことが明らかになる。ではこのような誤記はどこまで遡ることができるのだろうか。またくだんの女性画家の名がマルテイアではなく,イアイア(この名前もテクストによってはラーラともライアとも表記されていたのだが)であることはいつ頃判明したのだろうか。『博物誌J写本間の異同をみると,10世紀にまで遡るパンベルク写本(M.V.10)では「M.Varroniりであるのに対し,フイレンツェのリッカルティアヌス写本(488番)やライデンのヴオツシアヌス写本(61番),リプシアヌス写本(7番)では「MartiaJとなっている。これら後者の写本はいずれも11世紀のものとされており,このあたりですでにマルテイアという名前がテクストに現れ出ていたことがわかる。ボッカッチヨは恐らくべトラルカ旧蔵の『博物誌J写本に基づいて,『著名な女性たちについて』中の女性画家伝を著したと思われるが,ボッカッチヨがマルテイアという名を創造したわけで、はなく,彼が眼にした写本にはイアイアの事績に対してマルティアの名が与えられていたのである。さて問題の女性画家の名前がマルテイアではなく,イアイアであることは,1492/93年に上梓されたエルモラオ・パルパロの『プリニウス校閲CastigationesPlinianae.Iにおいて指摘されている(注17)。ところが先行する版本の威力は大きく,パルパロの指摘はなかなか普及しなかったようで,16世紀から17世紀にかけての美術文献には,なお頻繁にマルティアの名が登場する。ヴァザーリは列伝第二版(1568年)にアドリアーニ宛ての書簡を収載しているが,その中で古代の女性画家を列挙し,マルティアにも触れている(注18)。既に挙げたピーノの他にもロマツツォ,ボルギーニ,さらにはリドルフイやパチェコらが,古代の女性画家の代表としてマルテイアの名を挙げつづけているのである(注19)。

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