鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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套の解釈は変わってくる。ジョルジョーネのパトロンはヴェネツイアの若き貴族達であった。〈ラウラ〉もまたこうしたパトロンの一人のために描かれたと考えて間違いないであろう。そこで本稿ではこの外套を,ヴェネツイアの貴族社会という背景の中において,以下再検討する。ヴェネツィアでは貴族の正嫡は,25歳になると全員政治に参加できた。ここでいう正嫡とは,貴族の家柄同士の結婚によって生まれた男子のことを指す。15世紀になると親達は息子をできるだけ若い時から政治に参加させたいと希望するようになってきたらしい。そこで20歳から大評議会に席を得ることができる,パッラドーロでの既得権獲得に懸命になりだす。やがて1490年代になると,パッラドーロでの特権を獲得できる貴族に制限が設けられるようになる。ホイナッキによれば,パッラドーロに参加するチャンスから外れたものは,二流の貴族であることを意味したという(注10)。二流の貴族とは,政治の中枢での活躍の道,究極的にはドージェになる道を閉ざされたもののことである。つまり15世紀の聞にヴ、エネツィアでは,政治の場に占めるポストによって,貴族聞に差異化をはかる現象が顕著になってきたと推測し得る。従ってこの頃の貴族にとって,二流に落ちないための最大の関心事は,将来共和国の政治の場で活躍できる正当な継承者を育てることであり,それは言い換えれば,ヴ、エネツィア社会が認める正当な息子を産む“力”を有する女性との結婚であったと考えることは妥当といえよう。嫡を,生後8日以内にAvogadori di Comunniに届け出ることを義務づける法律を発布する(注11)。この法律は,パッラドーロ参加の特権を有することができる貴族の後継者を,生後8日目にして登録するというもので,ここには将来共和国の政治に関わる人物を,国家として早い段階から決めておこうとする意図が読み取れる。この法律をよく読むと,「法律によって定められた結婚」‘legitimomatrimonio’とか,「法律によって認められた女性との結婚」‘donnadalla leze nostre conocessぶといった記述が目立つ。もともとヴェネツイアでは,1422年に発布された法律によって,貴族の正嫡は,貴族同士の結婚によって生まれた子供だけであることが定められていた。したがって1506年に発布されたこの法律に,こうした表現が用いられるのは当然のことかもしれない。しかしこのような繰り返しによる花嫁の正当性の強調は,この時期に,将来国家を担う人物を産むことができる貴族の娘の重要性が,一層高まったことを示唆しているよ1506年,まさに〈ラウラ〉が捕かれた年に,ヴェネツイア共和国政府は,貴族の正348

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