鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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のような,「言葉」を介入させた,いわばテクストとしての形象という概念を設定するのだが,図像解釈学には,言葉とイメージの関係に関する厳密な理論構築が存在しない。さらに,図像解釈学の作品観が古典的な作品観の枠内に止まることが指摘できる。つまり,図像解釈学にとって,作品とは形式と内容から構成される有機的統一体であり,本質的に閉じられたものであって,そこでは,記号論が提唱する「聞かれた範列的空間内での間テクスト的な読解」の自由は,恐意的で不正確をもたらすものとして退けられるはずである。このことと関連して,図像解釈学が「修正原理jを持ち出して「正しい唯一の意味」を確定しようとする態度には,作品の「意味」に関する古典的な見解が含まれていると言えよう。形象が唯一の正しい意味につなぎ止められるものだと考えるのが古典的な態度だとすれば,記号論は,読解の本質的な不安定性を主張し,範列の「圧縮jと多元的決定による意味の多義性・多数性を容認する。したがって,図像解釈学が形象の正しい意味を確定する努力だとすれば,記号論は形象を「多義性を産出する装置」とみなし,多数の意味が産出されるメカニズム(多数のコード)を探求しようとする。最後に,図像解釈学がその到達点とみなす「内的意味」に関してであるが,それは「作者の人格j「時代精神」などの本質的なものを表すとされる。作品が作者/時代の本質を表現するという典型的に古典的な想定は,あくまで想定に止まり,厳密に言えば証明不可能である。記号論では,コノテーションの意味のレベルで時代の文化的コードと接合するという風に,この問題をより慎重に扱うのが常である。以上,記号論と図像解釈学の相違点について略述したが,両者には接点もある。マルコルム・パルの論文が示すのはそれで、ある。2.マルコルム・パルによるシスティナ天井画の図像学/記号論的アプローチパルは論文「システイナ天井画の図像学」(注3)の冒頭で,パノフスキーの理論を批判しつつ,同時に記号論で練り上げられた用語を用いてこの理論を補完しようとしている。これは図像解釈学を記号論的展望の中に位置づける試みとみなすことができるかもしれない。以下の考察では,パルの方法論について略述した上で,マランの「記号学」の諸概念との用法上の食い違い等について指摘したい。パルによれば,かつては図像学の目的は主題を同定することであったが,近年では「主題選択を支配している基準は何かJ「その選択にあたって責任のある人物は誰か」-25-

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