(注21)。一方ドッソ・ドッシの作品と〈ラウラ〉との関連性について,パラリンの次の推測は極めて示唆に富む。パラリンによれば,ドッソ・ドッシは,フエラーラのアルフォンソ公に,自分がヴェネツイア的な作風を描けることを認めてもらうために,1516年頃に,いかにもジョルジョーネ風の作品として〈ニンフとサチュロス〉を描いたということになる(注22)。この頃アルフォンソ公は,カメリーノの装飾をティツイアーノに注文していた。この装飾には最終的にドッソ・ドッシも加わったことを勘案すれば,この頃ドッソ・ドッシが何か自身の売りこみをしたと想定することは納得できる。ドッソ・ドッシがアルフォンソ公にヴェネツイア風をアピールするために,〈ラウラ〉の影響が色濃く表れた作品を描いたとするパラリンの説に従うなら,ドッソ・ドッシやアルフォンソ公,そしてフエラーラの宮廷の人達は皆,ジョルジョーネが描いた〈ラウラ〉のことを十分に知っていたことになる。すなわち彼等にとって〈ラウラ〉が周知のものであったからこそ,ドッソ・ドッシのヴェネツイア風は評価されたのであろう。そうであったとするなら,〈ラウラ〉は仲間内だけで秘匿され,共有されていた私的な作品であったと考えるより(注23),多くの人に対して聞かれた,極めて公共性の高い作品であったと考えるほうがむしろ理にかなっている。かつて稿者が別稿にて論じたように(注24),この当時のヴェネツィアの貴族の息子達の現実は結婚忌避であり,それは国の存続にかかわる大問題であった。こうした状況の中でジョルジョーネは,現実的で社会的な女性の理想像を描いた。すなわちこの作品は,ヴェネツィアの国家戦略を想起するに十分な政治的意味あいの濃いものであったといえよう。最後に,字数に制限があるために本稿では詳しく取り上げることのできなかった裸体について以下簡単に述べておく。花嫁や妻が,夫を悦ばせるために,自身の魅力を磨いたこと等を指摘しながら,16世紀に描かれた多くの美人画をすべてコルテイジャーナと決め付けずに,もう少し枠を広げて考えてみてはどうかとする見解が提出されている(注25)。また妻が胸を出して夫と共に表現された作例としてトゥリオ・ロンパルドの夫婦肖像〔図5〕を挙げることができる。ジョルジョーネとトゥリオは,画家として彫刻家-351-
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