注として互いに競い合っていた(注26)。ヴァザーリによれば,ジョルジョーネは,絵画と彫刻のパラゴーネに興味を示し,絵画が彫刻より優れていることのあかしを示そうと試みていたことがわかる。裸体と毛皮の組み合わせは,絵画でしか表せない触覚と結びっく。いみじくもレオナルド・ダ・ヴインチが,『絵画論Jの中で,「絵画は触ることのできないものを触れるように」(注27)と書いているように,ジョルジョーネは彫刻では表現できない触覚を,女性のみずみずしい胸と,そこに触れる毛皮の組み合わせで表現することによって,絵画と彫刻のパラゴーネに挑戦したのである。これらについては別稿にて論じる。chaste[ fr [ancho] / cholega de maistro vinzenzo chaenαad instanzia de mis giacm0” (「1506年6月1日にこの絵はヴインチェンツオ・カテーナの同僚であったジョルジョーネによってジャコモ氏の求めで描かれた。」)とする書き込みがあった。しかしこのジャコモ氏が一体誰であるのかわからない。1933年にこの作品は,ウィーン美術史美術館で修復された。元々この作品は,板の上にカンパスが貼り付けられていたので,修復するに当たって腐食した裏の板を削り取らねばならなかったらしい。その際,板の裏の書き込みはWildeによって新たに書き移された。詳細に関しては,A.Ballarin, Le Siecle de Titien ; Grand Palais, 1993, Reunion des Musee Nationaux, 332-337. Laura pal 2 & 1 1/2 idem [Giorgione]”(「ペトラルカのラウラ,ジョルジョーネ」)に端を発している。このデラ・ナーヴェは後にこの作品を所有したコレクターであって,この作品の注文主とは異なる。又彼女の背後に描かれた月桂樹もこの通称と関連付けられる。月桂樹は‘lauro’(ラウロ)でその女性形は‘laura’(ラウラ)だからである。時ヴ、エネツィア大使であったF巴ildingを通じてHamilton卿の所有となった。その後1649年にこの作品は再度売却されたらしい。そして1651年にLeopold-Guillaume(レオボルド・ヴイルヘルム大公)のギャラリーに登場し,以降ウィーンに所蔵さ(1) この作品の裏には“1506adj primo zugno Jo fatto questo de ma de maistro zorzi da (2) ラウラという通称は,1636年のBartolomeodella Naveのカタログにある“Petraces (3) この作品は1636年にBartolomeodella Naveのコレクションから,イギリス人で当352
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