鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
368/763

⑩万国博覧会と近代陶磁一一シカゴからパリヘ一一研究者:東京国立博物館陶磁室長伊藤嘉章1 はじめに19世紀後半,世界は「博覧会時代」であった。1851年,イギリスのロンドンで最初の万国博覧会が聞かれ,1900年のパリ万国博覧会までの半世紀には各地で多くの博覧会が聞かれた。産業革命を背景とした社会の諸分野の大転換により,物産会的な博覧会は「新しい時代,新しい文明をひとつの具象として人々に提示する,新しいメディアへと変貌しつつJ(注1)あった。1868年に明治維新を迎えた日本も,遅ればせながらこの「博覧会時代jに積極的に参入していく。明治6年(1873)にはオーストリアで聞かれたウィーン万国博覧会に固として初めて参加する(注2)。さらに万国博覧会の国内版と言うべき内国勧業博覧会の第一回を明治10年に開催した。「博覧会時代」は国により,あるいは時代によって,その持つ意味が異なっている。明治維新直後の日本にとっては,殖産興業という基本政策と博覧会とが重要な連関の中で捉えられていた。19世紀後葉は日本にとって博覧会の意味が大きく変わっていった時期にあたる。日本の近代陶磁は20世紀に入ると大きく姿を変え,ょうやく芸術としての陶磁,いわゆる陶芸が生まれることになる。ここに至る聞に19世紀末の二つの博覧会が大きな役割を果たした。本論では,明治26年(1893)シカゴ・コロンブス世界博覧会と,明治30年(1900)パリ万国博覧会を中心とし,陶芸誕生以前の日本近代陶磁の置かれた状況と,20世紀に始まった陶芸への方向性がいかに示されることになったかを見るものである。2 1893年,シカゴ一一一コロンブス世界博覧会(注3)明治26年(1893),アメリカのシカゴでコロンブスのアメリカ大陸発見400年を記念したコロンブス世界博覧会が開催された。この博覧会はウィーン万国博覧会以来,積極的に万国博覧会に参加してきた日本にとって,博覧会参加の意義が大きく転換した博覧会であった。明治前期における博覧会は,明治政府の基本方針であった「殖産興業」と強く結び付く。「殖産興業」を目的とした博覧会参加は,日本の工芸品を広く海外に紹介すること,海外の作品や情報の収集(注4),先進技術の習得(注5)など大きなキ主であった。-357-

元のページ  ../index.html#368

このブックを見る