19世紀後半の欧米はジヤボニズムの席捲により日本工芸に対する注目は高かった。陶磁で、は既に幕末のパリ万国博覧会で,金彩で華やかに彩られた薩摩焼が好評を博しており,これにより金彩によるSATSUMAスタイルが京都,横浜,名古屋など各地で作られるまでになった。博覧会での好評を背景に,間磁の輸出は増加し,明治10年代には全生産量の7割以上にものぼった。ところが明治15年頃より美術工芸品の輸出が減少していった。さらに園内の工業が成長するとともに,産業の中での美術工芸の占める位置が相対的に低下しつつあった。美術工芸品が輸出品としての相対的役割が低下するこの時期は,日本が国家としての骨組みを確立していく時期にもあたっていた。大日本帝国憲法発布(明治22年),帝国議会開設(明治23年)などは,単に内政の整備というだけでなく,日本を国際的に「一等国Jとして認知させようという動きを示すものでもあった。この時期の万国博覧会では,会場の中に美術館が設けられ,各国の「現代美術」の展示が行われていた。ところが,明治22年(1889)のパリ万国博覧会に至っても日本美術が美術館に展示されることはなかった。これは日本文化が世界的に認知されていないこと,つまりは「一等国」として認められていないという状況を示すものであった。日本は万国博覧会の美術館に日本美術を展示し,文化の上からも「一等国」として認められることを望んだ。明治26年(1893)シカゴ・コロンブス世界博覧会はまさにそうした気運が盛り上がっている頃に開催されたのであった。コロンブス世界博覧会参加にあたり,日本は工芸を含んだ、日本の美術を美術館に展示することを目指した。「日本の伝統的な意匠によって作られた工芸」という在り方を推し進める日本美術協会が,この時期の美術行政に大きな力を持っていたことは無縁ではない。日本美術協会の重要なメンバーであり,帝国博物館総長であった九鬼隆ーを副総裁とする臨時博覧会事務局は,御用品として優れた作品を作らせ,これによって美術館での展示を目指した(注6)。臨時博覧会事務局総裁で当時の農商大臣後藤象二郎は演説で次のように述べている(注7)。「我日本帝国ノ最良美術品トシテ彼ノ美術区ニ陳列スヘキモノヲ識別シ我国光ヲ揚ケ間接ニ貿易ヲ進メ本邦ノ名誉ヲ失墜セサランコトヲ期待スル」。そこでは「国光ヲ揚ケ」ることが最初であり,「間接ニ貿易ヲ進メ」るとする。まさに,美術館に日本美術品を展示することは,貿易振興以上に大きな目的であった。日本が欧米の列強に匹敵する一等国であることを示すためにである。
元のページ ../index.html#369