「宗教図像のこの複雑な結合体の意味は何か」といった問題群へと関心が移動している。E.ウイントからドットソンにいたる近年のシスティナ天井画研究史はまさにこの問題圏のなかで展開して来た。こうした研究者はそれぞれのやり方で解答を出したが,パルはその解答の出し方そのものを疑問視しているかにみえる。パルは次のように述べている。「近代の研究者は現存しないドキュメントの内容=プログラムを再構成する。このドキュメントは,神学者によって考案され,パトロンによって承認され,芸術家に説明されるものとされる。しかし,ルネサンス期において大規模な神学的複合体を示すプログラムが考案された証拠は何もなく,16世紀半ば以前にはいかなる寓意的な計画案も用いられた形跡はない。複雑で込み入っている近代の再構成に適合するようなプログラムは絶えて見いだせないのだから,再構成するというプロジェクトそのものが間違っているのである。どんなモデルも先例も存在しないようにみえるドキュメントの内容を後世の視点から再収集(reassemble)するのは無意味である」と。こうした研究の源泉に図像(解釈)学があるのだから,パルの批判の矛先は当然パノフスキーに向けられる。「パノフスキーの理論によって,テクストの探索が促進され,美術作品が歴史的に見て適正な意味を伝えうるものであるという結論が正当化されているように見えるかもしれない。しかし,これは,美術をただひとつのやり方で世界に関係づけようとした結果である」とパルは言う。ただひとつのやり方とは,パルによれば,範列を指す。「パノフスキーは範列関係のみに関心をもっていた。範列関係とは,ひとつの絵画的要素と別のひとつの絵画的要素との聞に対応関係を樹立しようとするものである。パノフスキーは,連辞関係の可能性を認識しそこねている。連辞関係とは,ひとつの絵画内部の諸要素聞の関係,あるいは(一作品内の)絵画群相互間の関係を指す」というわけである。パルの指摘によれば,パノフスキーはモティーフ相互間の連辞関係に言及することはあったが,イメージ相互間の連辞関係を見落としており,イメージ相互にはひとえに範列関係を打ち立てるのが常であった。例えば,「『青銅の蛇』と『ハマンの礁刑』の並置がキリストの礁刑を含意するのは,並置されているということ(連辞)によってではなくむしろ,これら二つの場面が個別に,礁刑を指示する原典(sourc巴s)に関係づけられることによって」である。パルの用語法では,指向対象である原典と画像の関係は「範列」関係ということになるが,マランの用語では原典はあくまで「文学的指向対象」にすぎず,画像聞の範列関係を構成しなし、。26
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