鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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日本美術が何故それまで美術館に展示されることが無かったかを確認しておく必要があろう。端的に言えば,工芸をも含んだ日本の美術と,欧米の美術との聞に,美術に対する概念の違いがあった。もともと日本には「美術」という概念自体が無く,この言葉はウィーン万国博覧会の参加の際に初めて登場した言葉であった。絵画,彫刻,建築を対象とする欧米の美術概念に対して,日本は工芸をも含めて美術とする概念によっていた。この美術概念の違いによって,欧米的美術概念で作られる万国博覧会の美術館に日本美術が展示されることは無かったのである。臨時博覧会事務局は帝国博物館総長であった九鬼隆ーを副総裁とし,この九鬼を中心として「日本美術を美術館へ」という方針を明確に定め,いくつかの方策を取った。ひとつは日本的な美術概念による工芸も含めた形での美術館への展示を博覧会協会に対して要求する。もうひとつは,工芸を含めた日本美術を欧米の美術概念に合わせようとする試みであった。日本絵画では,扉風,軸物という形態によって美術ではなく装飾品として捉えられたとして,額装とすることを求め,さらに画題も歴史画を中心に西洋画の概念にあわせることを目指し,その内容を細かく指導する。一方工芸では,「絵画化jすることを求めた。その結果,染織では,扉風仕立ての作品が出来上がり,七宝でも瀧川惣助の「富巌図額」のような額装の作品が生まれ,陶磁でも一対の花瓶に四条派風の絵画が描かれることによって二曲一隻の扉風絵的な世界を作り出す作品も作られた〔図l〕。コロンブス世界博覧会では,美術館の会場に日本美術が展示された。その中には陶磁・七宝・染織・漆工・金工といった工芸も含まれていた。これによって日本が大いに自信を深めたであろうことは想像にかたくない。そして7年後の1900年,パリ万国博覧会をむかえることになる。3 1900年,パリ一一パリ万国博覧会(注8)1900年,フランスのパリで万国博覧会が開催された。パリ万国博覧会の参加に向け設置された臨時博覧会事務局でも,シカゴと同様に副総裁を九鬼隆ーがつとめ,事務官長はやはり日本美術協会のメンバーで農商務省の官僚であった金子堅太郎であった。当時の日本では,コロンブス世界博覧会を日本美術の美術館での展示によって成功とする考え方が支配的であった。その一方で,フランスで聞かれる博覧会で同じ成功-359-

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