を求めるのは容易でないという認識もあった。同じ日本美術協会の会員でも,塩田真は美術協会での講話でアメリカで通用した日本的美術概念がパリでは通用しないであろうという見解を示している(注9)。フランス側は美術館の展示対象を絵画,彫刻,建築とする19世紀後半の西洋的美術概念,すなわち工芸を除外した純粋美術と規定した。それでも九鬼隆ーを中心とした日本側は,明治30年の段階で,美術と美術工芸を含んだ「美術」として,工芸をも含んだ展示をコロンブス世界博覧会同様に実現することを目指した(注10)。九鬼らにとっては工芸を含んだ日本美術という概念は,既に世界的に認められたものであり,シカゴと同様の方針によってその概念を主張することも可能と考えたのであろう。さらに御用品を制作する方針をここでも採用しその鑑査を行う。そこでは図案を提出させ,それによって鑑査するものであり,既に日本の伝統的な絵画意匠をまとうことを一種の前提とするような形が採用されている。ところが,明治31年になって臨時博覧会事務局は方針を転換する。「美術品及美術工芸品」を美術の概念とするという考え方から,「美術品」と「優等工芸品」を別枠と改めた(注11)。この時点で,日本の博覧会参加の主導権を握っていたのは,金子に代って事務官長となった林忠正であった。同じ時九鬼は副総裁を退いている。林は当時の日本にあって最も欧米の事情に精通した人間であった。シカゴでも,林は現地にあって臨時博覧会事務局の評議員となり,日本美術の美術館展示に大きな力をふるった。鈴木長吉が制作し,林が出品した金工作品「十二羽の鷹」はシカゴで高い評価を受けた。この林が実権を握った段階で,日本的な美術工芸という概念による工芸の美術への編入を断念し,欧米の概念による美術に適合させることとなった。パリ万国博覧会で,優等工芸品を含む日本陶磁の大半は,美術の部ではなく,第十二部七十一類(公館及ヒ住宅ノ装飾並ニ什器陶器類)に展示された。審査の結果,大賞を宮川香山が,金牌を香蘭社,深川忠次,竹本皐一,井上良斎,錦光山宗兵衛,協賛金牌を宮川半山,銀牌を加藤友太郎,伊東陶山,清風与平ら12名が受賞した。多くの受賞はあったものの,日本間磁に対する評価は厳しいものがあった。パリ万国博覧会での日本陶磁は,美術館に展示されることが無かったというだけでなく,時代の潮流から大きく外れ,かつての華やかな装飾性によって欧米でもてはやされた時代が完全に終わろうとしていることを悟ることになる〔図4・5〕。360
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