12)。パリでは陶磁をはじめとする工芸全体が美術館から外され,さらに陶磁に対して4 シカゴからノfリ一一一そこにあったものシカゴからパリへ。1893年コロンブス世界博覧会から1900年パリ万国博覧会へ。シカゴでは美術館に「美術」として日本陶磁が並び,高く評価されたものもあった(注の評価は必ずしも高いものではなかった。シカゴでは美術館に工芸が場所を得た。日本側の交渉に対して,アメリカ側が承諾し,日本以外の国も工芸品の出品を行った(注13)。シカゴでは,さらに興味深いことが行われていた。美術館に割り当てられた日本の区画が,開場後に大幅に拡張されたのであった(注14)。これに伴って工芸館から美術館へ作品の移動が行われた。最も高い評価を受けたのが,竹本隼太,宮川香山の中国陶磁を中心としたそれぞれに百種の花瓶であった〔図2〕。さらに,清風与平,宮川香山の清朝や中国宋磁の影響を強く受けた作品も高い評価を与えられた。その一方で,幕末以来人気を博してきた「SATSUMAJの評価の凋落が決定的となった。薩摩,京都などで作られた金彩による華やかな上絵付を施された薩摩スタイルは全く評価されていない。絵付で評価されたのは,本窯絵付と呼ばれた粕下彩で,上絵付にはない表現力の豊かさによって評価を受けていた(注15)。これらのことは当時の日本にあっても認識されたことであった。シカゴで起こったことで充分に認識されなかったことがいくつかあった。ひとつは,「絵画性jを重視する,しかも日本美術の伝統的な意匠,日本画などを陶磁をはじめとする工芸の上に配置することで日本美術工芸の本質であろうとするこれまでの方向性に対して,世界が評価しなかったという点である。高く評価された竹本の作品は,紬薬の技術に対しての評価であり(注16),竹本作品の造形的な優秀さをいうものではなかった。j青風や宮川の作品は,日本画を貼り付けるという形式ではなく,造形と意匠とが一体化しているところに評価があった。工芸館から美術館へ移された作品は,工芸館にあって既に評価の高かったものと考えてよかろう。その中に九谷の綿野吉二による色絵紫陽花園大瓶がある〔図3〕。この瓶は古九谷青手の様式を採用し,これを江戸期の古九谷には無かった大瓶に作る。必ずしも造形的に優れたものではなかったが,結果として紫陽花図を瓶に貼り付けるというものではなかった。大瓶の頚部を残し全体に紫陽花の花が描き込まれることで,まさに紫陽花の咲き誇らんばかりの世界が現われている。-361-
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