鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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シカゴの美術館で,フランス出品の陶磁に,乾山を写した作品があった(注17)。光琳との合作による角皿ではなく,立体造形を手本としていた。乾山は雲錦手鉢に代表されるような造形と装飾意匠が一体化した作品を多く残す。これを日本ではなく西洋が注目した。ところが当時の日本では,そこにジャポニズムの流れのひとつという以上の意味を見つけることは無かったのである。シカゴから2年後,アメリカのガラス工芸作家ルイス・コムフオート・テイファニーはファブリルグラス23種とステンドグラスなど6面を帝国博物館に寄贈した(注目)。この寄贈はコロンブス世界博覧会をひとつのきっかけとして行われた。当時の帝国博物館総長は九鬼隆ーであった。この寄贈は難航の後に受け入れられた。ところが,この時期,帝国博物館は新しい方向を打ち出していた。かつて海外からの陶磁器を美術工芸部に分類し,積極的に展示を行っていた帝国博物館が,この時点ではテイフアニーのガラスをすべて工芸部に分類する。しかも海外の陶磁器を展示する区画は博物館の中から消滅させ,作品自体も博物館の敷地外の別館に移してしまう。おそらくは博物館で展示されることも無かったであろうティファニーの作品の中に,やはり造形と意匠とが一体化した新しい様式を示すものも含まれていた〔図7〕。19世紀末,日本の美術行政の中枢にあり,美術工芸の世界を主導してきた九鬼隆ーらに,こうした新しい動きを評価する意識は無かったと言ってよい。パリで評価の高かった日本陶磁は大きく二つの系統の作品であった。シカゴでも好評であった竹本隼太の子竹本皐ーの作品は,清朝で流行した各種の単色紬を研究し,装飾としての絵付を全く伴わない作品であった〔図6〕。この時期盛んに行われていた柚に対する高度な研究と同じ流れの中にある作品である。さらに絵付の作品の不評に対して,全体に装飾を彫り込んだものの評価が高かった(注19)。これは絵画を貼り付けることによって「絵画性」を与えようとした日本美術協会的な作品ではなく,全体の造形と一体化した意匠構成を意識したものであった。それはコロンブス世界博覧会において美術館に移された色絵紫陽花図大瓶の意匠構成と共通するものを持つ。19世紀末,フランスを中心として既にアール・ヌーヴォーという新しい美術の動きが始まっていた。そこでは造形と意匠とが一体化した表現が行われている。パリ万国博覧会を体験した河原徳立は「形状でありますが花活にしても唯それを造ると云ふのでなく物の形で以て花活にして居ると云ふ傾きが多い,例へば蓮の花を口にして葉で胴を排へると云ふ意匠が多くJと記す(注20)。これはまさに絵画貼付けではなく,意362

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