注匠と造形とが一体化した新しい造形表現の作品であった〔図8・9〕。5 おわりにパリ以降,日本の近代陶磁は新しい方向を見つけ出すこととなる。明治初期から日本ではしばしば「図案」の研究の必要が常に叫ばれてきていた。明治前期に政府が主導して作られた『温知図録』はそれを背景として生まれ,日本工芸の発展に大きく寄与してきたものであった。ところが,日本美術協会を中心として,工芸に日本の伝統的な絵画意匠を着せることで日本工芸を作り上げていくという考えが主流になっていく中で,次第に造形と「日本画jによる意匠とが切り離されていく。立体造形を基本とする陶磁にあって,意匠と造形とを切り離して制作することは,大きな限界を定めてしまうものであった。その限界をようやく目の前に突きつけられたのが,パリ万国博覧会であった。ここに至って,ょうやく造形と意匠との問題を日本の近代陶磁は見据えることとなる。シカゴの「成功」がパリでの大きな「失敗」をもたらす。そしてパリの「失敗」が日本の近代陶磁を新しい段階へと進めることになったのである。川幕府,薩摩藩,鍋島藩と江戸の商人瑞穂屋卯三郎がそれぞれに出品している。会』東京国立博物館1997,②拙稿「シカゴ・コロンブス世界博覧会の日本陶磁一転換期としての明治26年」『楢崎彰一先生古希記念論文集』19980局による作品の収集もあった。氏の研究の成果をもとに,パリ万国博覧会の状況についてまとめている。参考文献①大熊敏之「明治“美術”史の一断面-1900年パリ万国博覧会と帝室(1) 園田英弘「博覧会時代の背景」『万国博覧会の研究』思文閤出版1986 (2) 日本人が関わった万国博覧会としては,慶応3年(1867)パリ万国博覧会で,徳(3)参考文献①『海を渡った明治の美術再見!1893年シカゴ・コロンブス世界博覧(4) 『j奥田博覧会見聞録』(1884)では欧米の作品を詳しく紹介している。博覧会事務(5) 『j奥田博覧会参同紀要』1897(6) 「本邦参同略史Jr臨時博覧会事務局報告』臨時博覧会事務局1895 (7) 「世界博覧会録事j『官報j2846号1892 (8) 1900年パリ万国博覧会については大熊敏之氏による詳細な研究がある。本章では,-363-
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