鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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の底部と棺榔の底部の落差は一般に三メートル前後で,,f~~の高さに一致するものが多たり鹿角や鹿の木彫像を随葬した(注25)。楚墓から出土する鎮墓獣は,およそすべてのものが鹿角を有し,また目を見聞き,長い舌をたらし,蛇をくわえるものもある〔図12〜14〕。こうした鎮墓獣の特徴は,すべてが昨邪としての力を示すものと考えられるが(注26),鹿角以外の要素に関しては時期的,地域的な差異があり,また戦国晩期にいたっては人面を有する鎮墓獣が現われた〔図13〕。これら楚墓にみられる鎮墓獣は,一般に頭箱に随葬されている。頭箱は被葬者の頭上にあたり,木榔墓において重要な位置を占める場所であった。楚国の伝統を引き継ぐ漢代初期の長沙馬王堆1・3号墓の例をとれば,松崎つね子氏の言うように頭箱が被葬者の生活の空間であり,棺室と頭箱が榔全体の中心をなしていたのである(注27)。しかしながら,鎮墓獣は戦国中期からその数が減少し,ついにはその姿を消してしまう。楚の文化圏内にあった馬王堆1・3号墓の頭箱には,もはや鹿角の片鱗さえ見られないのである。ところが,馬王堆2・3号墓の墓道からは,東西に対峠し頭に鹿角を有する“偶人”が出土したと報告されている(注28)。これまで長沙地区で発掘された漢墓のうち,このような鎮墓“偶人”を出土したのは,馬王堆2・3号墓のほか成家湖曹撰墓・象鼻H貫一号墓そして望城坂“魚陽”王后墓の5例である(注29)。成家湖曹撰墓・象鼻鴫一号墓のそれは,墓道にその痕跡がみられるだけで具体的な形象は不明とされるが,最近公表された望城坂“魚、陽”王后墓のものは,高さ約88cmで頭には鹿角を挿し,両手を水平に伸ばして墓室の前に立ちふさがっていた〔図15〕。これら,頭に鹿角を挿して墓室の入口に鎮座するものは,当然そこにあって外界からの侵入を防ぐ鎮墓像であり,楚墓に随葬された鎮墓獣の流れをくむものであろう。榔内に随葬された鎮墓獣と,榔外に出て墓室の入口に配置された鎮墓像については,鎮墓獣がもっていた昇天を助ける機能が吊画にとってかわられ,墓の守護という働きのみを担うようになった結果であるといわれる(注30)。このような変化は,また一方では墓葬構造の変化にも起因するものではないだろうか。黄暁芥氏によると,「楚墓は竪穴式墓墳の四壁に三段から十五段の段築をもち,墓道く,深く埋蔵された榔は隔絶と密閉を目指している」という(注31)。このような榔の伝統は,前漢時代にも受け継がれ,変化し,やがては室墓が成立するといわれるが,馬王堆3号墓・成家湖曹撰墓・象鼻瞬一号墓は,ちょうどこの過渡期にあたっている。372

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