馬王堆3号墓は,段数は減少しているものの段築が三段あり,墓道の底部と棺榔の底部の落差は大きいが,成家湖曹撰墓,象鼻噴一号墓はその落差が減少し,わず、か60cmとなる(注32)。こうした変化はすなわち,垂直から水平方向への変化で、あり,また密聞から開放への変化ともいえる。紙面の都合上ここでは詳しく紹介できないが,埋葬思想の変化に伴う樗防、ら室への変化については,黄暁芽氏の論考が卓見である。楚墓において榔内に置かれた鎮墓獣が,漢代にいたって榔の外に移動したというその原因のひとつは,こうした墓葬構造の変化にもみることができるであろう。構造的に開放方向にむかった墓室を守るには,墓主人の近くに侍っているだけでは事足りず,墓の入口にあって外界からの侵入を阻止しなければならなかったのである。おわりに楚墓の鎮墓獣は漢代の鎮墓像にヲ|き継がれていった。そして鎮墓獣が備えていた鹿角の霊力は,一方で鹿という本来の姿にもどって,障って向かい合う二頭の鹿という形象となり,漢墓の中の世界に生き続けたのである。徐州惟寧九女I敦漢墓出土にみられた二頭の神獣は,こうした流れをくむものである。下段に表された車馬出行図は,まさに仙界への入口に向かつて行進しているのである。漢代画像における双鹿図は瑞獣としての力を遺憾無く発揮し,仙界の入口にあって昨邪の役割を担い,そこが仙界であることを昇仙してくるものたちに知らしめていた。上段に広がる世界が,西王母の住まう仙界であったかどうかは断定できないが,九尾狐の姿を以ってすれば,そうした推測もまた許されるのではなかろうか。最後に漢代の鎮墓獣について一言述べておくと,重慶市化龍橋漢墓からは舌を出し,右手に斧,左手に蛇を掴む鎮墓偏が,成都天週山3号墓からは鈴のように大きな日で舌を出し,同じく右手に斧,左手に蛇を掴む鎮墓備が出土しており(注33),ここに楚墓の鎮墓獣にみられた張目・吐舌や蛇を掴むという要素が号店継がれていることがわかる。このほか,馬王堆1・3号墓出土の桃枚小備や陳西勉県老道寺漢墓出土の獣形有角の陶製鎮墓獣(注34)など,その種類は非常に様々である。また興味深いことに,漢代の双鹿図は甘粛省敦憧の西晋画像碑墓へと引き継がれていくが(注35),これについては楚墓の鎮墓獣の機能を様々な形に分裂させて継承した漢代の鎮墓獣の考察とあわせて,今後の課題としたい。-373-
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