鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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注(1)李鑑昭「江蘇唯寧九女撤漢墓清理簡報」『考古通訊』1955年第2期。『徐州漢画(2)尤振莞「江蘇潤洪曹廟東漢画像石」『文物』1986年第4期,図8。但し,下段は(3)佐原康夫「漢代洞堂霊像考j『東方皐報J京都第63冊1991年。曽布川寛「漢代(4) 信立祥『中国漢代画像石の研究』同成杜,1996年。(6)林巳奈夫「漢代鬼神の世界」『漢代の神神J臨川書店,1989年,197頁。(7)小南一郎『西王母と七夕伝承』平凡社,1991年。(8) 「双闘J,「半開の扉」などもその例であるが,紙面の関係上ここでは割愛する。(9) 武梁嗣の場合は,西壁から後壁に進む車馬行列が直接楼閣に入る。(13) (6)林巳奈夫前掲論文152〜153頁参照。尚信立祥氏はこの山の表現を「大河jと(14) 拙稿「出光美術館蔵「鍍金銀雲気丈盤」をめぐる一考察」『成城文塞』第145号,(15) 曽布川寛『崖岩山への昇仙』中央公論杜,1981年,56〜57頁。象石』江蘇美術出版社,1985年,図1310傍題のついた22人の人物像を描く。董像石における昇仙園の系譜j『東方墜報』京都第65冊,1993年。(5) (3)曽布川寛前掲論文195頁参照。同佐原康夫氏は図4,5をひいて,車馬行列であらわされた墓主が,山中の別世界を訪れることを明らかにされている。(3)佐原康夫前掲論文23〜24頁参照。制安丘県文化局・安正県博物館『安丘董家荘漢画像石墓J済南出版社,1992年。同徐州唯寧県収集の画像石に実際に馬が飼葉を食べている図像がある。『徐州漢画象石』江蘇美術出版社,1985年,図2540する。(4)1言立祥著前掲書206頁参照。1994年0同同曽布川寛前掲書28〜29頁参照。同河南省文化局文物工作隊「洛陽西漢壁画墓発掘報告J『考古学報』1964年第2期。(18)曽布川寛『世界美術全集東洋編第2巻秦・漢J小学館,1998年,図版610洛陽市第二文物工作隊・黄明蘭・郭引強編著『洛陽漢墓壁画』文物出版社,1996年。同制前掲論文116頁参照。側郭沫若「洛陽漢墓壁画試探」『考古学報』1964年第2期,4頁参照。(15)曽布川寛-374

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