⑨ 北朝画像石の調査と研究一一北隷墓の狩猟図をめぐる一考察一一研究者:金城大学社会福祉学部助教授蘇北親王朝を打ち建てた鮮卑族拓政部は,中国東北部のツングース系の遊牧部族である。その部族の源流について『貌書J巻一・序紀に次のように記されている。昔黄帝有子二十五人,或内列諸華,或外分荒服,昌意少子,受封北土,固有大鮮卑山,因以為競。其後世為君長,統幽都之北,贋漠之野,畜牧選徒,射j鼠為業,淳撲為俗,簡易為化,不為文字,刻木紀契而己,世事遠近,人相惇授,如史官之紀録罵。黄帝以土徳王,北俗謂士為托,謂后為政,故以為氏。広漠の野に住み,遊牧と射猟を業とする鮮卑族拓政部にとって,集団狩猟は軍事力と本民族在来の文化を維持する意味を持つ重要な活動である。拓政鮮卑と同じ先祖と見られる河西の禿髪鮮卑は,従属する漢民族の人々に築城,農耕などに従事させ,自分たちが戦術を演習し,交戦することによって,国を保持した。『晋書J巻一二六・禿髪利鹿孤載記に昔我先君肇白幽朔,被髪左柾,無冠菟之儀,遷徒不常,無城邑之制,用能中分天下,威震殊境。(中略)宜置晋人於諸城,勧課農桑,以供軍国之用,我則習戦法以訴未賓。若東西有変,長算以摩之,知敵強於我,徒而以避其鋒,不亦善乎!とある。遊牧民族の騎兵部隊が強い破壊力と高い機動力を持ち,近代火器の誕生まで,農耕民族はこれを防ぐ有効な手段がなかった。農耕地域で征服王朝を建てた鮮卑族にとって騎兵部隊の威力を維持するのは,生死存亡にかかわる問題で,先祖代代の生活様式を守る限り,征服した民族に対する軍事的な優位を守り続けるわけである。十六固と北朝では遊牧民族の集団狩猟は,軍事技術を研く一つの手段として頻繁に行い,特に北貌の軍隊には騎兵の比率が旬奴と掲の前趨・後超・慕容鮮卑の諸燕より高く,同じ遊牧民族の諸国に畏れられていた。『晋書』巻一二四・慕容賓載記に「説軍多騎,行師事j鋭」と,北説騎兵の怖さを語っている。『親書J帝紀の部分に献丈帝までの皇帝の狩猟に関する記事が数多く残っており重要な軍事活動だと思われる。孝文帝時代からは,拓政貴族の生活様式が大きく転換し,皇帝狩猟に関する記録が少なくなって来る。『貌書』巻七下・高祖紀に又少而善射,有普力。年十余歳,能以指弾砕羊縛及射禽獣,莫不随所志艶之。オ斤仁コ380
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