第l点2人の騎馬人物が画面に残っている。左の人物は振り向きながら,両手で第2点残片の左部分に騎士の顔の一部,弓を引いている手及び馬の尻しか残って第3点残片右部分にパルテイアンショットの姿の騎士が一人あり,馬の前半身と至年十五,便不復殺生,射猟之事悉止。とあり,孝文帝が少年時代には鮮卑族伝統的な射猟の訓練を受けたが,十五歳以後にはこれを止めた。孝文帝が十五歳になる年は太和五年であり,この頃から北貌では漢民族化の改革が進み,皇帝を中心とする大規模な狩猟活動を停止したと考えられる。狩猟文化の盛んな北貌前期では壁画墓・彩絵木棺墓・漆棺墓を造る技術は発達していなかった。この時期の狩猟図作例は,内蒙古の礼賛諾爾にある鮮卑墓地から出土した鹿狩り図の弓開一例しか知られず(注1),それ以上論考できない状態にある。現時点では公表されている北貌の狩猟図は,寧夏回民自治区田原県雷祖廟村彩絵漆棺・山西省検社県河崎郷河底村画像石棺・大同南郊張女墳墓地から出土した彩絵木棺及び内蒙古ホリンゴール三道営郷検樹梁村壁画墓4例位しかなかった。これらの狩猟図についてとくにまとまった研究がされていないようである。本論はこの4基古墳の年代・狩猟図の内容及び北貌前期狩猟関係の官庁組織・官職を考察していくことにする。一北貌古墳狩猟園の作例1 寧夏固原彩絵漆棺の狩猟図〔図1〕田原北貌彩画漆棺墓は,寧夏国民自治区固原県西2.5キロの雷祖廟村東岳山麓に位置している。1981年水渠工事のために田原文物工作拍の緊急調査によって,彩色漆絵の画かれる漆棺が出土した。復原された漆棺の全体は赤い地塗りで,白・黒・黄色で、さまざまな画像が描かれた。左右板の画面は,垂れている蓮華文帯により,上下三段に分けている。上段は孝子伝図,中段は六角繋ぎ文及び窓,下段は狩猟図を配した。とくに下段画像の保存状態がよくなかったために,左板には皆無で,右板には残片が5点しか残っていない(注2)。槍を持ち,後ろにいる何かの動物を突き刺している。右の人物は弓で前を走っている動物を狙っているようである〔図1-1〕。いないが,パルテイアンショットの姿であったことが理解できる。右の部分に羊か鹿のような動物が首に矢をつけたままに疾走している〔図1-2〕。-381-
元のページ ../index.html#392