のプランになっている。後室構造が余り詳しく報道されなかったが,面積が5m2で,天井は「四角掻尖jの形式であるという。発掘者が前室と後室は同じ時期の物ではなく,後室の年代が前室より古いと考えているが,根拠を明確にしなかった。墓室から遺品が出土しなかったようで,羨道と前室の壁に貴重な壁画が検出された。南壁と北壁の目立つところに青龍,白虎,朱雀,玄武図を配置し,出行,宴会,遊楽,狩猟,昇仙図も描かれている。これらのメイン画面の聞に,蓮華,牧羊,鹿,虎牛闘争図などを埋めている。報道は余り簡単すぎるから,明瞭でない点がなお多く残っている。注目されている狩猟図の長さは,約163cm,幅は113cmという。画面の中心部に,一人の朱色の長衣を着た鮮卑貴族が赤い馬に乗り,弓をヲ|いて,野馬を狙っている。言うまでもなく,この人物が主人公,つまり墓の被葬者に違いない。右前方には,三叉戟を持っている騎士,左後方に曲柄華蓋を挙げている騎馬の侍従が付き,侍従の頭に短いおさげが二本の角のように立っている。陪唐時代では,これは少女の髪型とされるかも知れないが,北貌では,若い男性にも二本のおさげを結ぶ習慣があった(注6)。さらに,一匹の犬,一台の偏幡式馬車と一人の弓をヲ|いている騎士が主人公の右後方を走っている(注7)。取者の髪型は,華蓋を挙げる侍従と同じである。画面の下方に川,三角形の山,樹木など狩猟場の自然、風景も描写されている。川には,一尾の魚と二羽の水鳥が泳いで、いて,魚、は水鳥より大きく見える。川岸に城があり,城壁の下に一匹の虎と二匹の正体のわからない動物が歩き,虎の体の後半分が城壁に隠されている。画面の構成は稚拙で,視覚的なバランスがうまくとれていない状態にある(注8)。撒樹梁村ー古墳の所在地は,正光5年(524)八月以前に朔州に属し,北貌は朔州に雲中鎮を置き,常に雲中鎮将で朔州刺史を兼ねる。従って,この地域は雲中ともいう。正光5年以後,朔州は雲州に改名した(注9)。『親書』巻三十四・燕鳳伝に雲中川,自東山至西河二百里,北山至南山百有余里。毎歳孟秋,馬常大集,略為満川。とある。雲中川は雲中平野,東山は現在の土黙川平野東縁にある陰山の余脈を指し,西河はトクト県内の黄河にあたり,北山は陰山,南山は山西省と内蒙古の境にある左雲・右玉周辺の山地に相当する。北貌の金陵(献文帝までの七人の皇帝陵),祖廟,故都盛楽城は,この地域にある(注10)。384-
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