\ 二北貌狩猟図の年代について狩猟図が出土した4基の古墳はいずれも紀年銘がなかった。固原漆棺墓の造営年代について,報告書では太和10年頃であろうとしている。それは漆棺の蓋に描かれた東王父・西王母など神人像の服装が「褒衣博帯」式であり,この服装は太和10十年(486)服装の漢化改革と関係深く,したがって漆棺の年代も,太巻七下・高祖紀下には十年春正月発亥朔,帝始服衰晃,朝饗万国…夏四月辛酉朔,始制五等公服…八月乙亥,給尚書五品以上朱衣,玉f凧,大小組綬。とある。孝文帝の太和十年の服装改革は,五等品以上の貴族と官僚に公服及び玉侃・組綬を授与し,漢民族式の晃服を導入したが,鮮卑族の服が禁止されたわけではなかった。その時点では,鮮卑族の在来風習と服装を変えたくない勢力が強かったので,漢民族式の服装を常時に着用するのは,病太后・孝文帝の側近及び漢民族の官僚だけであったと思う。1965年に敦埠莫高窟125126窟前から出土した太和11年広陽王恵安刺繍に描かれる供養人の王・王妃・王女像は,いずれも鮮卑服であった〔図5〕(注12)。漆棺蓋に表れている「褒衣博帯」の服装の東王父と西王母の造形は,漢代以来定式となり,前者が山字形冠をかぶり,後者の髪暑に勝を付けるかっこうであった。固原漆棺のように漢民族式の服を身にまとい,頭に鮮卑族の風帽をかぶるのは,前例がない。この特殊な服装の東王父と西王母の出現の原因は,孝文帝の服制改革に求めるより,むしろ漢民族の神が,鮮卑族の信者によって改造されたと考えられる。太和18年(494)魂服制改革が完成したと見ることができる。固原漆棺の場合は,東王父・西王母および「三桃殺三士」の歴史説話図を除き,墓主起居図・孝子伝図・狩猟図など現実生活と関り深い図に登場した人物は,皆鮮卑服である。このことから,漆棺墓が造られた時代に固原地域に住む鮮卑族の人々は,漢民族式の服を着なかったと推論できる。太和国年(494)以降,鮮卑族の服装が徹底的に禁止されたかどうかは別にして,貴族社会で漢民族の服装が主流になったとみることは,一応問題ないであろう。従って,寧夏漆棺墓の年代の下限は太和18年頃とみなされよう。そして,雲岡石窟第九洞前室北壁下段に刻まれるシュヤーマ本生図の狩猟図〔図6〕に見られる円頂山の形が固原漆棺の狩猟図〔図l〜3・4〕によく似て,人物の服装も一致している(注14)。第九洞和10年前には遡れないとするのである(注11)。太和10年の服制改革に関して,『親書』12月に孝文帝は鮮卑服を禁止する詔書を公布したが(注13),これによって一般的に北-385-
元のページ ../index.html#396