円Jの年代は太和8年〜13年(484489)と推定され(注15),固原漆棺の年代もそれに近いと考える。私はこの年代観に従い,以上問題にしてきた張女墳の彩絵木棺・檎社県の石棺および撒樹梁村壁画墓の年代と性格についても検討を進めることにしたい。張女墳墓地は,紀元5世紀頃北貌平城郊外にある拓政鮮卑族の墓地であり,出土した遺物の中に北貌の灰胎暗紋土器以外に,ベルシアガラス器・銀器も含まれている。中小規模の墓から,貴重なベルシア金銀ガラス器が出土するのは,太和改革以前にしか考えられないことである。太武帝が西秦,赫連大夏,北涼等西北諸国を滅ぼした時に獲得した珍宝を多量に将土たちに賞賜したという(注16)。これらの政権は西域との交流が頻繁であったので,数多くのソグド,ササン朝ペルシア,ピザンチンから産出した宝物は軍功の奨励品として北貌軍人の手に入ったに違いない。前述したように狩猟が遊牧民族にとって軍事訓練でもあり,この彩絵木棺蓋の内容から見て,被葬者は従軍経歴のある男性である可能性が強い。太和10年(486)以前,北貌には官僚の俸禄制がまだ施行されていないので,中原王朝のような厳しい喪葬等級制度を実行する条件が備わっていなかった。都に住む鮮卑部族の人々は,金陵に陪葬する貴戚と功臣以外には,皆平城郊外の氏族墓地に埋葬され,等級差別はいちじるしくなかったが,彩絵棺蓋の出土した傾斜する墓道を持つ土洞墓は,竪穴式墓道土洞墓,竪穴式土坑墓よりランクが高いと考えられる。この墓の年代については,山西省考古研究所の王克林氏は北貌の太武帝時代,つまり五世紀前半に位置づけた。しかし,張女墳墓地の埋葬風習は,文献に記されている道武帝時代から文成帝までの拓政鮮卑の埋葬風習とはだいぶ違う。『宋書』巻九十五・索虜伝が拓政部の在来埋葬風習について次のように記録している。死則潜埋,無墳臨処所,至於葬送,皆虚設棺梓,立塚惇,生時車馬器用皆焼之以送亡者。これはおそらく南朝の使者の見聞に基づいて書いたものと思われるが,その客観性は北朝の文献記事でも証明されている。『親書J巻四十八・高允伝に允以高宗纂承平之業,而風俗依旧,婚安喪葬,不依古式,允乃諌日:前朝之世,屡護明詔,禁諸婚要不得作楽,及葬送之日歌謡・鼓舞・殺牲・焼葬,一切禁断。難条旨久頒,而俗不草変。将由居上者未能怯改,為下者習以為俗,教化陵遅,一至於斯。
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