鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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とある。また『親書』巻十三・皇后列伝に文成文明皇后橋氏,長楽信都人也(略)高宗崩,故事,固有大喪,三日之後,御服器物一以焼焚,百官及中宮皆号泣臨之,后悲叫自投火中,左右救之,良久乃蘇。とある。465年文成帝が残す時代まで生前の用品を焼くという拓政鮮卑の在来の埋葬風習が続いたと解る。しかしながら,張女墳墓地から出土した豊富な副葬品は,主に生活用品,つまり生前に使ったものであり,明らかに焼葬ではなかった。このことは,この墓地は主に文成帝以後の墓であることを裏づけている。張女墳墓地は孝文帝の改革の主要舞台である平城の郊外に位置し,画面の中の人物がみな鮮卑在来の服を着ている。太和18年以降この種の服が禁じられたことから見るに年代の下限が太和18年服制の改革以後には下げられない。狩猟図画面の全体はバランスよくとられ,人物・馬・獲物・樹木の輪郭を取る墨線も流麗で、,作者の手法は熟達している。棺蓋の辺縁部に飾った波状半パルメット紋の類例が国原漆棺の前柏にも見られ,仙人掌状の山が田原例より簡略に描かれているが形はよく似て,人物の服装と馬の尻繋ぎの形式も同じである。そして,傾斜する墓道を持つ土洞墓は,中原墓制の影響を受けて造ったものと見られ,時代は比較的新しい。国原漆棺の年代が太和18年に近いと推定されているので,張女墳棺蓋の年代の上限は孝文帝以前に遡れないと思う。検樹梁村壁画墓の年代は,発掘者によって孝文帝太和10年以後,太和19年洛陽遷都の前に位置づけられ,雷祖廟漆棺墓の年代と変わらないとされている。確かに,雷祖廟と張女墳二例と比べて,橘樹梁村墓の壁画の技法は,かなり稚拙である。ところが,注意を払わなければならないのは,検樹梁村墓の壁画に登場した人物は鮮卑族の伝統服装を着ているのが一人もいないことである。北貌では道武帝の天興6年(403)に一度冠服制度を制定したが,札制に合わない部分が多いといわれている(注17)。太武帝は,武力に熱中し,漢民族の冠服に魅了されなかった。その時代から,孝文帝太和10年までに,拓政鮮卑の人たちは基本的には風帽と「爽領小袖」の上着を特徴とする本民族の服装を着用していた。前に述べたように,孝文帝の太和十年の服装改革により,五等品爵以上の貴族と官僚は朝廷から新制定の朝服をもらったが,鮮卑族の服装は禁止されなかった。とくに,狩猟のような伝統の活動では,便利な民族服装を着るのは常識であった。ところが,太和18年の服装改革は全面的に漢化,鮮卑服装を禁止することを目指して行ったので387

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