もに設置された官職である。『説書J巻ー百一十三・官氏志天賜二年(405)正月条に置散騎郎,猟郎,諸省令史,省事,典範等。とある。猟郎の格付けに関する記録は残っていないが『親書Jには猟郎を勤めた人物五人を記録している。彼らの事跡を分析し,猟郎の職掌と任務を明らかにしたい。I .『親書J巻二十六・長孫肥惇附子長孫翰停に翰,少有父風。太祖時,以善騎射,為猟郎。太宗之在外,翰輿元磨i軍等i警謀奉迎。太宗即位,遷散騎常侍,輿磨j軍等拾遺左右。以功遷平南鎮北境,威名甚著,嬬嬬↑車之。後為都督北部諸軍事,平北将軍,真定侯。II .巻二十八・古弼惇に古弼,代人也。少忠謹,好讃書,又善騎射。初為獄郎,使長安,栴旨,車専門下奏事,以敏正著栴。太宗嘉之,賜名日筆,取其直市有用,後改名弼,言其輔佐材也oIII.巻三十九・叔孫建惇附子叔孫俊博に長子俊,字醜蹄,少聴敏。年十五,内侍左右。性謹密,初無過行。以便弓馬,車事款,何輿元磨j軍等説紹,得時太宗。事在麿i軍惇。是時太宗左右,唯車路頭,王浩児等,及得俊等,大悦,以為爪牙。N.巻三十・安同惇附子安原博に屈弟原,雅性幹最,況勇多智略。太宗時為j鼠郎,出監雲中軍事。V.巻三十・周幾伝に周幾,代人也。父千,有功太祖之世,賜爵順陽侯。坐事死。幾少以善騎射為強郎。太宗即位,為殿中侍御史,掌宿衛禁兵,断決稿職。遷左民尚書。右の資料をまとめて見ると,次のことが窺うことができる。の家柄についてはっきりしないが,『説書』官氏志により,神元皇帝の時に帰属した吐美氏の子孫と推定される(注22)。ほかの四人は皆トップクラス貴族の出身である。長孫翰は,道武朝の重臣,藍田侯長孫肥の子である。叔孫俊の祖父叔孫骨は,昭成帝の母親王太后に育てられ,父親叔孫建は貌初の名将であり,丹陽王の爵位を得,征南大将軍,都督翼青徐j斉四州諸軍事など要職を勤めた。安原の先祖は,後漢桓帝の時に洛陽に来た安息の王子安世高と言われ,父親の贈高陽王安同は,太宗明元帝を擁立したA・猟郎はおそらく貴族の子弟に限られた職と考えられる。右の五人のうちに古弼為1鼠郎。太祖崩,清河王紹閉宮門,太宗在外。紹逼俊以為己援。俊外雄従,貰忠389
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