鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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重臣である。周幾の父親は賜死されたが,道武朝の順陽侯であった。参与し,監軍権をも得ている。古弼は,太宗明元帝の治世(409〜423)に猟郎を勤めたが長安に出使して,任務を完成した。417年7月以前の長安は挑秦の首都で,翌418年11月以後は赫連勃勃の支配下に入ったが,明元帝が挑秦と密接な関係を結び\挑興の娘を迎え入れている。長安の遣使は重要な外交使命を帯びていたと考えられよう。叔孫俊と長孫翰は道武帝に仕えた猟郎である。天賜6年(409)10月に清河王紹がクーデターを起し道武帝を試し,長男の拓政嗣との聞に皇位争奪戦がおこった。互いに敵となった兄弟はともに猟郎叔孫俊に協力を求めた。元磨j軍という人物が首謀者となり,叔孫俊・長孫翰が拓政嗣の擁立に力を尽したことが知られる。猟郎は「爪牙Jの臣として重要な役割を果たしたのである。また安原伝に見るように官僚制度が未整備だった北魂前期では,猟郎は軍隊を監視し,皇帝の耳目としても活躍したが,安原は猟郎の身分で雲中監軍事の要職に任じられている。雲中は,北貌の金陵・宗廟の所在であり(注23),六鎮を設置する前に柔然を防御する北境の軍事上の重鎮であったからである。C・猟郎を起家官とした右の4人は,ともに長じて重臣となっている。長孫翰は,太宗明元,世祖太武朝の名臣で,対柔然と対旬奴赫連氏に戦功赫々たるものがあり,平陽王・安集将軍に封じられた。神虜3年(430)に死去した際,太武帝が葬儀に参列し,金陵に陪葬される特殊な栄誉をえた(注24)。叔孫俊は,明元帝の腹心の重臣で,群臣の奏折はすべて叔孫俊の校閲をへて皇帝に提出されたといわれる。泰常元年賜され,金陵に陪葬された。『貌書』によると北貌の功臣・思倖の葬儀で叔孫俊を超えたものがなかったという(注25)。古弼は太武朝に仕え,赫連氏の大夏・底族楊氏南秦の仇池を征伐する際に殊勲を建て,太延2年(436)北燕征伐は北貌軍の副統帥に任じられた。内政面においても業績が多大で,「社榎之臣」と呼ばれたが(注26),安原も河間公・侍中・征南大将軍まで出世している(注27)。北貌前期では,危険度の高い狩猟活動の中で,皇帝の身の安全を守る職能から,政治闘争の中で皇帝を守る職能に転換するのは容易である。官僚制度がまだ確立していない段階では,皇帝の側近である猟郎は,軍事・外交の重要な使命を担い,さらに宮B・北貌前期では猟郎が皇帝侍従官であることから外交活動,宮廷政治闘争に直接(416)に28歳の若さで亡くなると,「贈侍中・司空・安城王」が贈られ,温明秘器が下390

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