廷政治においても大きな発言力を持つこととなった。なお,猟郎の職に関する記事は道武と明元2朝に限られ,その後廃止されたと思われる。献文帝以後,狩猟が農耕帝国の籍田のように国のあり方を示す儀式に変質した結果,羽猟諸曹など官庁が設置されている。『親書Jに見られる羽猟曹・遊猟曹に関する記録は次の如くである。巻四十四・羅結惇附羅伊利{専に子伊利,高宗時襲爵(帯方公)。除内行長,以況密小心,恭勤不怠,領御食,羽識諸曹事。伊利曾病,額祖幸其宅,自視醤薬,其見待如此。巻二十七・穆崇惇附孫穆泰惇真子泰,本名石洛,高祖賜名駕.以功臣子孫,尚章武長公主,拝樹馬都尉,典羽j鼠四曹事,賜爵鴇胡侯。巻五十一−韓茂{専附子韓備惇に長子備,字延徳。初為中散,賜爵江陽男,加揚烈将軍。又進爵行唐侯,拝冠軍将軍,太子庶子。遷寧西将軍,典遊1鼠曹,加散騎常侍。襲爵安定公,征南大将軍。卒,贈薙州刺史,誼日簡公。羅伊利・穆泰・韓備は,いずれも功臣の子孫であり,公爵または侯爵の爵位を持ち,家柄において猟郎を勤めた人物たちと共通点がみられる。羅伊利が内行長に任せられた時に羽猟諸曹と御食を共に主管していることから,羽猟諸曹は皇帝の生活と関り深い内官の職掌に属すると思われる。また穆泰が第三品上の附馬都尉で羽旗四曹事を典し,韓備が寧西将軍,第二品上の散騎常侍で遊猟曹を典した。遊猟曹が羽猟四曹に含まれるかどうかは不明だが,狩猟関係の官職は,いずれも品秩の高い官僚貴戚の子弟で占められていたことが知られている。北貌時代,畿内の周辺地域に野生の虎が多量に棲息していた。『貌書』には太宗明元帝・世祖太武帝・太宗文成帝・顕祖献文帝による虎狩りの記録が多く残っている(注28)。虎狩りは拓政鮮卑の皇室と貴族が重視した狩猟活動で,そのために都の平城の北苑にも虎圏が設けられていた。『水経注』巻十三・累水条は次のように記している。又南径虎圏東。貌太平異君五年成之以牢虎也。季秋之月,聖上親御園上。敷虎士効力於其下,事同奔戎,生制猛獣。即『詩』所謂担楊暴虎,献於公所也。故説有拝虎図也。『親書』巻三・太宗紀永興四年(412)条にも2 虎圏と野馬苑391
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