和6年(482)'3月に,詔書を発布し虎狩りを禁止した。『親書』巻七上・高祖紀上太春二月発未,登虎圏射虎。同巻七上・高祖紀上太和四年条に閏月丁亥,幸虎圏,親録囚徒,軽者皆免之。とある。『親書』によると,412年に虎圏がすでに存在し,『水経注Jでは太平真君5年(444)に設置されたものとしており,虎圏設置の年代には相違がある。虎狩りは命の危険があり,地方政府が虎を朝廷に進貢する財政的な負担も多大だ、った。太和2年,孝文帝と文明太后が朝臣たちを率い虎圏に臨んだ際に,虎が閤道に登り,御座に近づくという事件が起っている(注29)。その後に,孝文帝は,自ら狩猟を止めた翌年の太和六年条に三月庚辰,行幸虎圏,詔日,虎狼猛暴,食肉残生,取捕之日,毎多傷害,既無所益,損費良多,j人今勿復捕貢。とある。虎圏の廃止時期については文献記録がないが,虎の進貢を止めてから,十数年のうちに虎の自然死亡により,虎圏もなくなったと考えられる。張女墳の木棺の狩猟図が虎圏で行われる狩猟活動を描写したものかどうかは,現時点では確認できない。平城時代に北貌の皇室,貴族たちはよく雲中で野生の馬を狩り,太武帝の時には馬苑が置かれた。『貌書J巻三・太宗紀泰常四年(419)条に冬十有二月発寅,西巡,至雲中,謹白道,北猟野馬於辱孤山。とあり,同巻四・世祖紀太延二年(436)条に冬十有一月己酉,行幸相楊,駆野馬於雲中,置野馬苑。とある。白道は,北貌故都盛楽城の北46キロの「白道南谷口Jから,陰山を通り抜ける道であり,漢代から惰唐時代にかけて陰山の南北を結ぶ要路であった。白道の南谷口にある白道城は,陰山の北にある武川鎮を支援し,南にある故都の雲中盛楽および金陵祖廟を守る役割を果たした軍事要塞であった。辱孤山は白道と陰山の北部にある山で,梱楊も白道の北西に位置し,北貌懐朔鎮の所在地である。北説皇帝の野馬狩りに関する記録から,陰山北部,現在の武川県から固陽県に及ぶ地域には,北貌時代に野馬が多数生存していたことがわかる。北貌は雲中郡つまり陰山白道嶺の南に野馬苑を設置したが,検樹梁村古墳が雲中野馬苑の近くに位置していたことからすると,その狩猟図はおそらく野馬苑の狩猟風景を描写したものであろう。野馬苑のある雲中郡には北説の重要な城として雲中城・盛楽城・白道城があった。雲中城はホリンゴール392
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