県古城鎮にあり,平野に造られた城であり,『水経注』河水条によると城南に白渠があったが,現在は砂漠化が進み,川床も失われた。盛楽城は低い台地の聞に位置し,宝員河(古代の白渠)が城の北西を流れ,山らしい山はなかった。壁画に描かれた連続する三角形の山は,雲中城と盛楽城の周辺には見られない。自道城は今フホホート市の北にある陰山山脈の白道南谷口に位置し,その西に域口子河があり,北に陰山とその支脈白道嶺がえんえんと起伏し,白道中渓が南へ流れ,壁画に描かれた地形ともよく一致する。野馬苑が陰山の南麓,白道城の近くにあったことを裏づけている。四結び以上,北貌古墳から出土した4例の狩猟図について,その出現の歴史的な背景,製作年代について検討した。その上で,狩猟に関係する前期北貌の官職・官庁・施設諸問題にもふれて,皇帝の側に仕える猟郎は,功臣子孫という特殊な階層から選任され,職掌を越え皇位争奪,外交活動,監軍事などの大事に深く関与したことに注目し,鮮卑遊牧帝国の側近政治のあり方を考察した。献文帝以後,狩猟は農耕帝国の籍田のように儀式に変質しつつ,中央官庁で設置された典羽猟諸曹などの機構は依然として高いランク付けがされていたが,太和年間に制定された官制には狩猟関係の官職が見えなくなる。孝文帝の洛陽遷都は鮮卑族の在来の生活様式を変え,北族的遊牧国家から中原的征服王朝体制へと変容させ,農耕化の歩みを加速させたが,結果として北貌国軍の戦闘力を弱めたことは否めない。正光4年(523)六鎮の乱が起った際には,北貌王朝が有事に対応する「天下無敵の鮮卑鉄騎」はもはや存在せず,皇室は柔然の力を借り,六鎮の叛軍を破ったが,河北に移住された鎮民の叛乱を再度鎮圧するために,秀容地方の契胡領民首長爾朱栄の力にたよらざるを得なかった。孝文帝の漢化改革以後,北秀容地方の契胡部族は従来通りの遊猟生活様式を守り続けたために,その騎馬軍団は北貌前期の鉄騎に負けない強い戦闘力を維持しえたのである。『説書』巻七十四・か朱栄伝築潔白,美容貌,幼而神機明決。及長,好射猟,便為軍陳之法,7虎令巌甫,衆莫敢犯。(中略)楽性好嵐,不合寒暑,至於列国而進,必須膏ー,難遇阻険,不得回避,虎豹逸園者坐死。其下甚苦之。太宰元天穆従容謂柴日,「大王動済天下,四方無事,惟宜調政養民,Ji[頁時蒐狩,何必盛夏馳逐,傷犯和気。」柴便擢肘謂天穆日,「太后女主,不能白正,推奉天子者,此是人臣常節。(中略)今秋欲共兄戒革力士馬,-393-
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