鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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日,アトランタの防疫センター(CDC)から出され,5人の症例が報告された。5人はすべて若い男性(29歳から36歳)の同性愛者で,乳児や免疫抑制剤を投与されている者以外は擢りにくいニューモシスチス・カリニ肺炎を患っていた。81年末までには疫学者や臨床医によって,この症状がゲイ伝染病と認知され,ゲイガン,ゲイ肺炎,ゲイ関連免疫不全(GRID)やゲイ伝染病という名称が使われるようになる。AIDS(後天性免疫不全症候群)という略号が使われ始めたのは82年夏からで,翌年,CDCがAIDSを定義し,世界保健機関でも採用される。1981年11月に合衆国衛生局に公式に登録された症例は159例であったという。83年にエイズの元凶となるウイルスがフランスの研究者リュック・モンタニエと同僚によって分離される。同年には輸血や血友病患者の感染が報告された。疫学者たちはこの病気にさらされやすい人々をリスク・グループ「4H」,すなわち,「ホモセクシュアル,ヘロイン中毒患者,ハイチ人,ヘモフィル(血友病患者)」と呼んだ。一般のメディアが初めてこの病気を伝えたのは81年の公式発表直後の7月3日『ニューヨーク・タイムズ』誌で,「41人の男性同性愛者に見られる珍しいガン」という題が付けられていた。しかしネットワーク・テレビが初めて伝えたのはその約l年後の82年の6月で,やっと82年の終わり頃には一般紙も取り上げるようになったが,記事は多くの患者が「リスク・グループ」に入っていることを強調した。「リスク・グループ」の人々は「擢っても自業自得」の人々であり,一般の人々にとっては「エイズjはあくまでも他人事であった。ここですでに,ヘテロセクシュアル(異性愛者)を一般の人々と見なし,ゲイを一般ではないとするメディアにおける差別の構造が浮かび、上がる。疫学上の概念が,「リスク・グループ」を排除するために使われたのである。しかし主要報道機関がエイズを取り上げる機会は未だ非常に少なかった。エイズの情報はもっぱら医学誌とゲイ・プレスが中心であった。テレビや新聞,雑誌等が競ってエイズを取り上げるようになるのは,1985年,ハリウッド俳優ロック・ハドソンの発病以降のことである。アメリカ人にとって,男の中の男,「健全な」(ゲイではない)男らしさを象徴する存在であったロック・ハドソンのエイズ疑惑と死は,ヘテロセクシュアルの聞に「エイズ・パニック」と呼ばれる状況を引き起こしていく。「他人事Jであったエイズがハドソンの死により,一挙に身近な出来事になったのである。この時(85年7月末)までにすでに,1万2千人以上の人がこの病にかかり,6千人以上が亡くなっているに-31-

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