鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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2.ユスティにおける「古代彫刻蒐集jの記述とその背景されるのはむしろ当然の帰結と言える。パロミーノが固執した各彫像の情報は,セアンには「子細なこと,風説,取るに足らない情報」の類いで「芸術家の芸術的に優れた部分jを著すには必要不可欠ではないと看倣された訳である。時代を考慮すれば,決して古代彫刻を軽んじるはずのなかった(注12)彼らだが,ここでのベラスケス像には,「制作者jベラスケスのカメラ・オブスクーラ的な自然主義,絶妙かつ抑制された筆捌き等が特筆大書され,古代彫刻との関係はどのような局面においても強調されない。彼らのベラスケスへの認識は,古代彫刻と無縁にその芸術を確立させたと言われるテイツイアーノへのものと同様だった。続く19世紀には,国外のスペインへの注目度が高じ,世紀半ば以降はベラスケスに関してスターリング・マクスウェル(英),クルテイス(米),クルサーダ・ピリャーミル(西)らの多くの書物が出版される(注13)。この背景として,ナポレオンの侵略,美術館の登場,雑誌・版画のメディア等に促されたロマン主義のスペイン文化発見が研究されている(注14)。しかし,件の「古代彫刻蒐集」についてこれらの書物を観察すると,スペイン国外の著作はどれも情報源にセアンを利用しているのか,ほんのl〜2行の記述で,持ち帰った個々の彫像についての言及はない。わずかに自国の著述家クルサーダ・ピリャーミルだけは,パロミーノからの引用であることを明記し,この先達の記述を要約しているが,その彼にも彫像の詳細な解説は見られない(注15)。パロミーノ以降,「古代彫刻蒐集」について初めて詳述し,そこに独自の情報も盛り込んだのは,カール・ユステイ,1888年にその二番目の大著としてベラスケスを取り上げたドイツの研究者だ、った(注16)。彼の研究書では,ベラスケスの第二回イタリア旅行の章に「古代美術jの項が設けてあり,それは16世紀後半以降の古代彫刻周辺の事情を詳述することから始まっている(注17)。更にユステイはパロミーノの情報を駆使して17世紀のオリジナル作品の所蔵別に「蒐集jをリストアップ,それらの19世紀における所蔵場所や呼称まで明記する。続いて,ベラスケスがその鋳型やコピーを持ち帰った彫像が当時のコレクションの常套品目であったこと,彼の「蒐集jを物理的・学識的に協力し得た人物の解説,当時のイタリアの著述家たちの記述も援用し,ベラスケスの「蒐集」が行われた環境を描き出している。

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